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愚痴を書くブログ

父親

あるとき、遠くのガラス窓に映った自分の姿がどことなく父親にかぶって見えた。背格好や体形や顔立ちなどすべてを総合して。今まで父親にも母親にも見た目で似ているとは言われたことがなかったから、自分でもそのようなことを思ったことはなかったので少し驚いた。男の場合は歳をとるごとに父親に似てくることが多いみたいですが、僕もその系統らしいです。ともあれ、見た目だけじゃなく僕と同じくらいの歳の頃に父親が僕と似た嗜好だったり価値観を持っていたんじゃないだろうかと思う瞬間が、ここにきて時たまある。ただ当の本人は僕が高校に入って間もないころに病気で倒れて、さよならも言わずこの世を去ってしまったので今となっては知る手段もないのですが。帰省した時に母親に対して改まってそういうのを尋ねるのもなんだかぎこちない感じがするし、田舎のほうで暮らしている彼の父親や姉に尋ねてみたところで、きっと性格上あまり実家とも頻繁に連絡を取るタイプの息子ではなかったに違いない。だから就職して稼ぎ始めてた24くらいの頃の彼の生きざまを知る手段は残されていないように思われる。

だから父親似の嗜好をもっているのかどうかに関しては、親子という関係であった15年間だけの記憶に頼った推測でしかない。けれど、たとえば息子を助手席に乗せてカセットテープの音楽を流して延々ドライブするのが好きだったり、カラオケが好きだったり。タモリみたいなシュールで地味な笑いが好きだったり、ちょっとスケベな番組をコッソリ深夜に見てたり、夜中まで外で酒を飲んで家族へのお詫びにこっそり家にドーナツをお土産に持ち帰ってきたりしていた父親に関するおぼろげな記憶が、この歳になった自分にはやけに馴染む。まるで長期間ほこりをかぶって仕舞われていたカセットテープがリワインドされてまた元の場所から再生されるかのように、僕も父親の人生を無意識のうちに辿っているのではないだろうかと仰々しくも考えたりする。

たとえば仕事が嫌になったり鬱憤を晴らしに車を走らせたりする瞬間は、きっと彼も一緒だったのかななどと勝手に故人への思いを寄せる。少し心が軽くなったりもする。本人からしてみたらそんなことはないぞ、勝手に俺を利用していい気になるなと天界から物言いをしたくなるケースも時としてはあるかもしれないが、勝手に想像して思いを馳せるのは遺された家族のいわば特権である。どんなにお墓参りをしたり法事に出席するよりも、そういう瞬間が故人への弔いになるんじゃないかと、これもまた勝手に最近は感じていることである。むしろ自分が死んだときにそういう風に思ってくれたら少し嬉しいかなと思うからそうしている。死人冥利に尽きるなあ~と感じたりするだろうなと思う。

仕事の都合でおそらくお盆にはお墓のある田舎に帰れないのが申し訳ないけれど、月末には祖母の法事があるのでそこまで半月ぐらい気長に待っていてもらえると助かります。いつもスーパードライを飲んでいたので口に合わないかもしれないけれど、サッポロクラシック缶を供え物として持っていくので。まあ死人に口なしというから飲めないと思うけど。