beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

他方、まだ下のバットが健在

あらかじめ断っておくとタイトルと本文は関係ありませんが、もはやいくら高校球児を夢見たところで高校球児にはなれない歳になってしまいました。黙って過ごしていると歳を経るごとに選択肢は狭まってしまう。あの頃、別の選択をしていたら、僕もああやって熱い青春を過ごせたのかな~~とチラリと思ってしまう瞬間がありますね。僕はスポーツも勉強もほどほどにやって、適当に遊んで過ごしていたら高校を出て大学も出てしまった。でもまあそれはそれで、それを経てこそ今の自分があるし、今までの積み重ねにそんなに後悔はしていない。高校球児が野球をしていたためにできなかったことを、野球に没頭しなかった僕が、野球に没頭しなかったがためにできたみたいなことはいくつかあると思う。

女の子に産まれたらプレイヤーとして甲子園には出られないので、男の子に産まれて高校球児になりたかったナーと憧れる女の子も一定数いると思うんですけど、それはそれとして、せっかく僕が男に産まれたのにも関わらず球児にならなかったという事実とはほとんど関係がない。これは当たり前の話なんですけど、世の中にはそういうたぐいのちょっと理不尽な言論がいくつかあると感じていて、たとえば「せっかく北海道に住んでるんだからウィンタースポーツしなよ」と言われても、北海道に住んでいる人全員がウィンタースポーツをこよなく愛するべきかと聞かれるとそれは筋違いだと思うし、別段僕はウィンタースポーツが好きではないのであしからず~~と思って受け流すところです。「良質なスキー場が近くにあるのにもったいない~~」といわれても、ウィンタースポーツ好きの人が1.0楽しめるところを僕が行って普通のスキー場で0.6なのが北海道でやったら0.8に伸びても差し引き0.2だけは好きな人より不幸せなんだからしょうがない。でもまあそれぐらいの趣味趣向に関わる程度の話なら全然許せるんですけど、結構真面目な感じで「せっかく五体満足で過ごせてるんだからありがたいと思って毎日過ごせ」みたいな言説はとても暴力的だと思うので、ぜひ廃止に向けた取り組みに励んでいきたいです。

乙武洋匡さんのことはあまり知りませんが、僕が「五体不満足」という本を手にとって「手も足もなくてかわいそうな人も世の中にはいるんだから、五体満足の僕らは感謝しよう」という感想文をあらかじめ書こうと予定していて、1ページ目を開いてみたら実は「この身体に産まれて一切不満足に思ったことはありません」という内容でした。このフェイントぶりにはC.ロナウドもびっくりするだろうなあと思ったことよ。そこで僕の本当の感想文は、「うちはうち、よそはよそ」で片づけるのが大体は楽チンだし正解の方法なのだろうなあ、という内容でまとまりそうです。高校球児は高校球児で注目こそされどやっぱり自分たちなりに幸せをかみしめているし、高校球児にはなれない女の子でも、あんなに汗を流して熱くなれる舞台はなくても幸せを手にする機会はいくらでもあるのだろう。他方、僕は僕でこんな自分でもある程度好きだと思えるのは幸せなことだと思います。人を見て率直に「かわいそう」だなんていう単純化された綺麗ごとみたいな言葉で片づけるのは軽率だと思いました。

あと、歳を経るごとに選択肢が狭まるのも「そう見える」もしくは「黙ってると自然とそうなる」だけの話で、実は身の振り方によっては、歳をとるごとに選択肢を拡げていくこともできるのかもしれないと思いました。身体は30歳をピークに老いていくといいますが、脳みそはボケることもあるけれど、文化的なセンスは歳をとるごとにぐんぐん深まり、濃厚になっていくという話を聞いたことがある。そういうのをないがしろにしないで、若いうちだけしか動き回れないという誰かがなんとなく作ってしまった思い込みに縛られずに、「うちはうち」で、半永久的に、選択肢拡げる型の生き方をしていけたらいいなあと思いました。