beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

精神の自動高揚装置

有給休暇を2日消化して生成した10連休のうち、ここまで9日間(※正確には、連休前最終勤務日にも「連休だ!ウオー(酒を開封する)」のムーヴを発動しているので10日間)の連続飲酒を記録してしまい、それが今なお継続中。誠に遺憾。小生の不徳の致すところ。こんな体たらくでは今年度の健康診断でも「今はまだいいけど、腹囲の推移が傾き正の綺麗な一次関数のグラフを描いているので気をつけろよ」と医師に指摘されてしまうのが目に見えている。

なぜ人は飲酒してしまうのか。せっかくの休日なので、できれば高揚していたい。それも明るいうちから。高揚するためにはアルコール。アルコールには不思議な力がある。高揚しながら聴くと素晴らしい音楽はより素晴らしく聴こえるし、見える世界も普段に増して輝いて見える。こうして文字に起こしてみたのを傍から見るとまるでアルコール中毒一歩手前のヤバくなりつつある人のように見受けられるかもしれないが、普段は社会の歯車としてまじめに仕事をしており、金曜日以外の平日は一人で飲まないルールを設けているので安心してもらいたい。とはいえ、定年とかで平日にやることがない完全体の暇人となったら本物のアルコール依存者になってしまうのではないかという一抹の不安がある。そういった年になるまでに何らかの対策をするか、あるいは身体を壊して本気でアルコール摂取ができない身体にしていくかしなければなるまい。

「対策」としてはいくつか考えているが、そのなかで最も有効で、崇高で、かつ実現可能性が低いのは「アルコールの力なしでも十分に世界の素晴らしさを感じられる感性を身につける」というもの。アルコールに頼らずとも、これ以上ないほど目の前の風景が素晴らしいと感じられたら、それ以降アルコールは必要ないであろう。目の前の不安を視界から追いやるためにアルコールを摂取するのだという人がいる。その場合でも、そもそも不安が不安でなくなればアルコールは必要ではなくなる。アルコールで嵩上げしていた諸々を自身で解決する術が用意できれば、アルコールはその味を嗜好する以上の用途がなくなる。ただその術が自分の中で見つけられていないので、その道の先駆者がいらっしゃればぜひ「コツ」を教わりたいところ。

自分の中で発生した不調和に対する解決策を自分自身の中に持つ、というのはこの現代において特にエッセンシャルな能力だと日々感じています。たとえばメディアを通じて流れてくるのは小綺麗にラッピングされた他人の成功や幸せや美談などの話がほとんどで、そうした波動を真っ向から受けてしまうと自身の日常のみすぼらしさを感じ、往々にして気が落ちてしまう。外圧による不調和が生じる。不調和にどう対処するかといえば、自分も負けじと小綺麗な「素晴らしい自分」の発信者になるとか、匿名での憂さ晴らしに転換していくとか、不調和のきっかけになるようなメディアからは距離を置くとか。主観的な話をすれば、できるだけ他人を巻き込まずに自分一人が気持ちよくなれる方法で不調和を解消していきたい。他人を巻き込んでしまう形で不調和を消化しようとする動きが、この世の中いたるところで、本人の意思とは関係のないところで、様々な歪みをもたらしているのだろうなあと漠然と考えたりすることがあります。

現にこの記事も「他人の文章に比べて小生の文章のいかにくだらなく、つまらないものか」という思いから何回か書き直しているし、自身の中にそういう装置を持つというのはなかなか容易い話ではない。持っていて、なおかつ適切に使えている人がごくわずかであるから、インターネットの海原はいつも荒れ果てているのだろう。何の話でしたっけ。とりあえず明日も連休お疲れ!という掛け声と大義名分のもとでアルコールは開封してしまうだろう。アルコールの力なしに正しく世界を美しがれるほど、今の自分はまだ成熟していない。

痛み空港

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口腔の痛みの話です。

昨年の大晦日にくちびるの左側方面裏付近を噛み切り負傷。上の男が指さしているちょうど左右逆側のあたり。2018年の終了まで残り1時間ほどというタイミングで無念にも口内炎を拵えてしまう運びとなる。

普段自宅でアイスなど食べることはないのだけれど、帰省中の実家の冷凍庫は充実しているため口が寂しくなったときについ手が伸びてしまう。当時、実家の冷凍庫にはまさに口寂しさを埋めるに相応しいミニカップゼリーが凍った状態で保管されていた。

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こういうやつ。クワガタとかがよく食うてるタイプ。

リンゴの絵がデザインされたフタをはがし、内容を口に含みいい具合に溶けてきた頃合いでグリーンの凍結物を仕留めようと咀嚼を開始したとたんに悲劇は起こる。凍結物に妨げられコントロールが困難になってしまった左下の犬歯が仕留めたのは、なんとおのが頬肉だったのである。

 

12月は仕事で多忙な毎日であった。毎日帰宅は遅く、休日返上で仕事をする日もあった。仕事納めの翌日も出勤して、なんとか年内の業務を終えて心置きなく年末年始休暇に入ったところ。2018年に何一つ置き忘れることなく新年を迎えるはずだったのに、あとわずか1時間のところで発生した口内炎を年を跨いで持ち越す形となってしまった。

その口内炎に関しても、お正月3が日のうちは比較的楽観視していた部分があった。噛みきってできた口内炎はいつもの調子でいくと3~4日我慢すれば治ると考え、あまり気にかけずに生活をしていた。しかし今回の口内炎は以下の点で一味違っていた。

①治らない

②時間の経過とともにどんどん痛くなる

 

元旦の頃はまだよかった。お雑煮を食べることに難儀した記憶はない。うどんも食べた。なんなら懲りずにアイスも食べていた。それがお正月休みも終わろうかという1月6日頃になると、辛いものが沁み、しょっぱいものが沁み、おまけに甘いものが沁み、熱いものも冷たいものも沁み、最終的には吸い込んだ外の空気が沁みるまでに暴徒化してしまった。

自分なりにここまで悪化してしまった原因を考えた結果、年始の激しい飲食習慣が起因していたのではないかという仮説を立てるに至った。食事等で刺激を与えると腫れが強くなることがわかり、そこへくると数時間飲み食いを続ける機会というのは口内炎からすると勢力拡大のビッグチャンスに違いない。ただし、酒を飲んでいる途中は痛みを忘れているのでまったく痛みが気にならない。酒というのは、物理的な痛みと精神的な痛みのどちらも忘れさせてくれるからすごい。

ここで口内炎を強く刺激し、私をして悶絶せしめた食品ランキングトップ3を紹介しようと思う。

 

3位:うめぼし

味が濃いものが基本的に沁みるのはご想像の通り。塩気と酸味のダブルパンチが口内炎を激しく刺激する。ただ、たくさん口に含む物ではないので、舌をうまく活用することである程度沁みを回避することが可能。

 

2位:わさび

お寿司のわさび。これはツラかった。うめぼしの酸味や塩気とは異なり、わさびの風味はなんというか、気化するので、じかに口内炎に触れなくても“わさびエキス”をふんだんに含んだ空気を経て間接的に痛みを与えてくる。ちなみに、わさびのない寿司は魅力が半分ぐらいになることがわかった。

 

1位:ラーメン

味が濃い+熱い。麺がしみる。スープがしみる。湯気がしみる。口内炎に触れることを避けるようにチビチビ食っていると時間がかかり最終的にのびてしまう。エンドレスで痛い。八方塞がりとはこういう状況かと思うと同時に、年始からラーメンの湯気を見つめながら“八方塞がり感”を感じるなんて思わなかったな、と思わず笑いがこぼれる。しかしフッと笑ったことによる顔の変形でなお口内炎が痛む。配膳されてから完食するまでもれなく地獄だった。

 

不幸中の幸いと言えるのは、口内炎の人にありがちな「口内炎になった箇所を食事中に再度噛みきってしまう」現象が発生しなかったこと。あれをしてしまうと口の中が痛いだけでなく、口内炎を忘れて油断していた己の甘さにも心が辛くなる。無意識に自分で自分を傷つけてしまう行為は意図的であってもそうでなくても、しんどいものである。

 

現在はほぼ完治しました。完治までの間、痛みに耐えきれずマツモトキヨシで購入した軟膏を使用。

https://www.matsukiyo.co.jp/store/online/p/4987316051055

直接患部に塗るタイプ。口の中に薬を塗るという経験がなく初めは苦戦したものの、徐々に患部にうまく塗れるようになった。後から調べると絆創膏のように貼るタイプのものもあったらしく、そちらのほうが簡単だったかもしれない。

口内炎と闘う日々は、孤独でつらいものだった。すべての食事がしみるので、わりと本気で食事が億劫になった。ほぼ完治し痛みがなくなった今、食事中の私は、ご飯だけではなく何も難儀せずに食事ができる喜びをも噛み締めている。

口腔の痛みから始まった2019年。幸先が悪いともいえるし、悪いことを先取りしたので後にはいい一年が待っているはずと考えることもできる。おみくじは中吉。とはいえ幸不幸を神頼みにしてばかりではなく、自ら手繰り寄せるよう努めたい。なんたって“噛み”で痛い目を見たから…。

平成31年の帰郷

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幼稚園から高校卒業まで住んでいた街に久々に行った。お正月休みが例年より長かったことと、人に会う予定ができたことが理由。

生まれたのはそもそもこことは別の土地で、実家もいまはそちらにあるので、この街にはこれといった約束事がなければ全く行くこともなくなってしまった。私が私たる礎を築いた、といっても過言ではないその街からは自然と足が遠ざかってしまい、遠ざかってしまったまま年月が流れることとなった。そうした中での久々の訪問ということで、なかなかに感慨深いものがあって。

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日中に時間があったので、思い入れのある場所を何時間もかけて思いつく限りに歩いてみようということをあらかじめ決めていた。車で移動するのも電車で移動するのもジョギングするのも好きだが、その土地をじっくり見て回ることが目的の場合はイヤホンもせずにとにかく歩くと決めている。音やにおいまで含めてその土地を感じるために、五感をフル稼働させてゆっくりと歩く。歩くことは楽しい。「趣味:徒歩」とさせていただくことも視野に入れている。だいたい山と街がテリトリーです。

第一目的地の海鮮料理店はせっかく行ったのにお正月休みで訪問できなかったけれど、その近くにある定食屋で遅めの朝食とし、腹ごしらえを済ませてから行動開始(お刺身盛りと鯖の塩焼きの定食に締めのコーヒーもついて1,100円!)。住んでいた地域の方角へ、高校生の頃に好きでよく歩いていた川沿いに移動することにした。

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小学生の頃に写生教室の題材となったセメント工場は独特の風貌で、今風に言うと「インスタ映え」する代物だと思う。住んでいたころは写真もやっていなかったのでそんなことは微塵にも思わなかったけれど。川縁には白鳥が飛来していてエサをやっている人たちがいた。受験勉強に飽きた頃に散歩をしによく訪れたあたりだけど、こんなに白鳥がいただろうか?意識していなかっただけで、きっと元からいたのだと思う。人間の業に比べると自然に生息する動物の習性というのはそう簡単に変わらない。

港湾エリアから1時間半ほど歩くとかつての生活圏に入る。新興住宅地と古くからの住宅地と田畑が入り交じる独特の空気。小学校の友達が住んでいてよく遊びに行っていた団地の公園は半分が駐車場になり、半分は公園のままで残っていた。

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バネで前後するパンダの遊具だけが6体色褪せた状態で残っていて、なぜこれだけを残したのか疑問。地域の子供たちはその公園に行ってもパンダに跨がり虚ろに前後する以外の選択肢がなくなってしまった。子供たちの遊び場よりも駐車場不足のほうが団地運営上切迫した問題だったことから、担当者が涙を飲んで他の遊具を撤去したことが見て取れる。

歩くこと数分でかつて住んでいた家にたどり着いた。私が住み始めた24年前は新築で、周囲の住宅に比べて真新しかった記憶があるが、今は色褪せて見えるのは隣にあった空き地が新興住宅地に様変わりしたことだけが原因ではないと思う。駐車場には知らない車が停まっていて、知らない誰かがそこで生活を営んでいるのであろう。中を見ることは叶わないが、おそらく我々が住んでいたときとは部屋割りや置いてある家具のレイアウトも異なっているのだろう。私自身、引っ越しを繰り返してきた人生なので、これまで育ってきた家や部屋が現在ではことごとく他の誰かのものになってしまった。と改めて書き起こすとなんともいえない不思議な気分になる。それは歓迎すべきことなのか。はたまた由々しき事態なのか。本当はどうでもいい気もする。端から見ればそれはある種「切ない」事象なのかもしれないが、当人にとっては案外そうでもない。何かを捨てる時に、捨てるまでは思い出や未練がウジウジと湧いてきて捨てることを思いとどまってしまいそうになったとしても、いざ捨ててしまうと途端にその物のことなど忘れてしまう現象と似ているかもしれない。突き詰めるとそもそもの話かつての生活様式をいつまでも保存しておくことにどれほどの意味があるのかという話にもなるし…。縄文時代の遺跡でもあるまいし…。と数分ゴニョゴニョした後に考える意味もわからなくなって旧家の前を後にした。

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いつも行っていた床屋も、怪我がちでいつもお世話になった整骨院も普通に営業していて安心した。昨年ブレイクした芸人よろしく、ひょっこり訪問して元気な姿を見せたい気持ちもあったけれど、土曜の日中にお邪魔しては悪いかと思ったのとなんか照れ臭いのとでそのドアを叩くことはできなかった。そんなことを言っているうちにいつまで経っても挨拶に行けないことは承知している。照れ臭さというのは往々にして足枷でしかない。

住んでいた街のよく知っている道と、あまりよく知らない道とを辿りながら滞在先に戻った。

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幼い頃から親世代が「あそこには昔あれこれがあって」「街並みが様変わりした」と言うのを聞かされていたが、今回の訪問で私がそうした場面を目の当たりにすることとなった。確かに街は変わっていく。新しくできたもの、かつてはあったがなくなってしまったもの、昔から変わらずにあるもの。郊外に新興住宅地ができた。全国展開しているお店の看板が目につくようになった。足繁く通ったお店が空きテナントになった。高校生のときにできたたい焼き屋はとっくに無いだろうと踏んでいたが普通に営業していた。一番の衝撃は、高校時代最も濃密な時間を過ごしたグランドが潰されて立派な屋内スケート場が建設されていたこと。

また僕を育ててくれた景色が呆気なく金になった

少しだけ感傷に浸った後 「まぁ それもそうだなぁ」

Mr.Children 「ランニングハイ」)

スケート場は公共施設だから、資本っぽさは薄いけど。

人がどんな街で、どんな環境で育つかというのは価値観や性格を形成するうえで重要なファクタになると思っている。寒冷な地域で育った人は温暖な地域で育った人と比べてセカセカしてるとか、都会で育った人に比べて田舎で育った人は多少マイペースに生きているとか、あくまで傾向に過ぎないとは思うけれど。大都市から程遠く冬はとことん冷え込むような地方都市で育ったからこそいまの自分の性格があるわけであって、これが首都圏だったり温暖な土地であったらまた違った人格に仕上がっていたかもしれない。

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感覚レベルで染み付いているものもある。東側と北側が海で、南に向かうにつれなだらかな丘陵地となり標高が上がっていくという土地の感覚は言葉にできないシックリ感がある。スマホや地図がなくても感覚的に家のあった方角に歩いていくことができるような…。反対に、平坦な内陸部や山に囲まれた土地ではやはりそこに住んでいても「よそ」の感覚がある。

歩いた距離は22.1km、歩数は28,000歩余り。所要時間は休憩も含め5時間ほど。歩いていただけだが非常に充実した夢のような時間だった。川を遡りながら自らのルーツを辿るかのような心持ち。変わっていくものと変わらないものがあったが、変わらないように見えたものもこれから少しずつ変わっていくのだろう。あと、街は私抜きでも普通に営まれてきたし、これからも営まれていくのであろうことを実感した。当たり前のことではあるけれど。

山形

山形に向かっている。

山形県出身および山形県に縁のある方々には非常に申し訳ない話だが、正直山形県って東北六県で最も影の薄い県だと思っている。そのユニークなフォルムから小学生の間では北海道と沖縄に並ぶ認知率だという青森県。本州一の巨大な領域を誇り日本最多となる8駅もの新幹線駅を擁する岩手県。東北のN.Y.C.こと仙台を県庁所在地とする宮城県。なすび、三瓶、ゴー☆ジャスなど、個性的な芸能人を次々輩出し、今や世界的知名度福島県。神の使いが「悪い子はいねがー!」と猛った結果、若年層が流出し本当に子どもがいなくなりつつある秋田県インパクトのあるこれら5県に対して、山形県の印象は薄いと言わざるを得ない。出身地の隣県ながら、住んでいた頃から「ウド鈴木の地元」ぐらいの印象しかなかったのが正直な話。普段、日常生活において山形について考える機会はそうない。

そんな山形も、調べてみるとなかなか魅力が多いことがわかる。さくらんぼが有名だが、実は洋梨の生産量も日本一、桃やブドウもかなりの上位につけている。芋煮や板そばなどの独特な食習慣があり、米沢牛は日本屈指のブランドでもある。また日本百名山鳥海山蔵王山、月山、朝日連峰飯豊山、吾妻山が県内もしくは県境に存在している山岳県でもある。さらに特筆すべきは、県内全市町村で天然温泉が湧き入浴できるという温泉王国であった。過去形なのは、新庄市に一軒あった天然温泉施設が2017年末に老朽化で閉館してしまい、今年からは新庄市だけが温泉の空白地となっているためである。

https://sp.kahoku.co.jp/tohokunews/201711/20171130_53002.html

ともあれ温泉が多いのは確かで、中でも銀山温泉なんて今風な表現を使えば「日本一フォトジェニックな温泉街」と言っても過言ではないだろう。

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http://nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/1801/08/news022.html

これだけの魅力がありながらも、こちらから本腰を入れて調べてみないとなかなか目に入ってこないあたりがPR下手な東北民らしさなのかもしれない。

ここまで山形を持ち上げに持ち上げてきたが、一方でやはり自分の住んでいた土地のほうに強い魅力を感じてしまうのも人間の性かもしれない。だいたいなんで鳥海山の山頂は県境と見せかけておいて完全に山形側にあるのか、秋田県に生を享けてから28年の歳月を経ても未だ腑に落ちていないし、海側が極端に短いビジュアルもバランス感覚を欠いているとの評価を下さざるを得ない。今日は蔵王山に登ります。

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カベ・トーク

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振り返ってみて2017年はマラソンに傾倒していた年だったと思うが、2018年はもっぱら山に登っている。山にいてる。それもまだ2018年も序盤のころであれば走りと山登りとを織り交ぜたトレイルランニング““的な””ニュアンスを多分に含む山行を楽しんでいた記憶もあるが、最近はどうだろう、もっぱら山歩きと森林限界を超える山行を週末の楽しみとしているフシがある。

大学を卒業してまだまだ若かったつもりが今もジューニブン若いものだが、それでもアラサーというフェーズに差し掛かった近頃、いくぶん歳を重ねたことを感じる機会が多くなってきた。テレビに出る若い綺麗な女の子は大抵年下だし、「おっさんジャパン」と揶揄されたほど年齢層が高かったというサッカーロシアW杯の平均年齢もなんだかんだ言って私の年齢ドンピシャだったとのこと。時の流れるスピードが少々速すぎやしませんでしょうか。そしてここ1年ほど走ることから何となく遠ざかってしまったところで、今度はひとつランクを落として「歩き」に目覚めてしまったというのが私の顛末。

なぜ走ることから遠ざかってしまったのかと考えてみると、普段あんまり走る時間を取れなくなってしまったことでたまに走っても速くない、速く走れないから面白くない、という三段論法的な感情的な理由が一番大きいのかなという気がしている。かつて活発に打ち込んでいた人が徐々に離れて行ってしまう要因となる「3つの壁」というものがあって、1つ目は仕事が忙しくなったり家庭を持ったりすることで打ち込める時間が少なくなってしまうという「時間の壁」、2つ目は「時間の壁」により下がってしまったパフォーマンスのまま続けていても面白くないと思ってしまう「プライドの壁」、3つ目は毎年毎年シーズンになればトレーニングをして決まった大会に出て、という繰り返しに飽き飽きしてくるという「マンネリの壁」、とのこと。以上は““大人の人””からの完全なる請け売りでありますが、ここ1年ほどのうちに、森であれロードであれ、走ること全般に関して「(仕事による)時間の壁」⇒「(キロ6でしか走れない)プライドの壁」に綺麗にぶち当たってしまった私には理解が容易い。

その点山登りについては、誰かと時間を競うでもなく、競わないので特別な日常のトレーニングが無くてもそこそこ楽しめる、さらに山上での食事や風景写真をいかに手中に収めるかなど付帯的な面白味もある。かつては““速さを競っていた界隈””が近頃急激に山登りに傾倒し始めているのは、ここら辺の心のムーヴメントが多くの人の中にも同じようにあったのではなかろうかと踏んでいる。

そんな私も、雨予報だった今朝は久々に自宅近辺を走ってみることにした。平日ほとんど運動をしていない分体重もそこそこ増え、1km6分のジョグもそこそこしんどいという身体になってしまった。1年足らずで身体というものはなかなか変わってしまうものである。キロ6分でチンタラ走りながら思い出すのは走るのが一番速かった高校生のころのこと、マラソン大会で学内をトップで駆け抜ける姿が卒業アルバムの1ページに収められた。あのころ23分で走れたコースも、今日のペースで行くと40分以上かかる計算。もう若くないからしょうがないよね…という諦めもありながら、でもやっぱりあの頃のように速く走りたいなと思う気持ちがあり、ところがどっこい社会人を続けながらあの頃のように死ぬほどトレーニング積むことはできないしな…と絶望する部分もある。大人をやるというのは常にこういう葛藤と戦って生きていくことなのだろうなと思われます。学生時代に長い時間をかけて醸成されてしまった「プライドの壁」というのは大きく高く、その点学生時代の経歴がなく社会人になってから走ることを始めた人は強いなと思うことも多い。涼しくなる9月は、通勤カバンにウェアとシューズを詰めて業務が早く終われば皇居に向かおうかと思う。またしても、、またしても!!何らかの理由をつけてあえなく3日坊主に終わる可能性も否定はできまい。

無職にまつわるエトセトラ5選

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-1. 前置き

あけましておめでとうございます。2017年もよろしくお願いいたします。

この記事を開いていただいた方、ありがとうございます。2016年は大変お世話になりました。

 

早速ですが、この年越しと同時に私は会社員になりました。おかげさまで会社員になることができました。ありがとうございます。

会社員になる前は無職でした。すなわち去年まで無職。先月までニート。Before today, I'm Not in Employment, Education or Training。

自ら望んで無職になりました。9月からの4か月間という短い期間ではありましたが、れっきとした無職として生活を営んできました。

このエントリですが、無職としての自分へのお別れとして、あるいは会社員として一般社会へ戻っていく自分へのはなむけとして、この時点でなにかを遺すことにしようと考えて筆を執りました。言うなれば無職としての私の「遺書」のような位置づけですね。

自らのためだけに与えられた膨大な時間をゆっくりと駆け抜けてきました。すると手元に感想のようなものが確かに残ったので、それらを5つの項目に分けてまとめてみました。海外旅行であるとか、起業であるとか、特に何かそういう大層なことを成し遂げたわけじゃないので、結構些細なことばっかりなんですけれども。お正月の暇つぶしとしてこのエントリを存分にご活用していただければと存じます。

 

0. 無職になった経緯

4か月間無職でしたが、8月まではきちんと会社員として働いていました。3年と5か月ほど単一の企業に勤めました。企業の中で日々を過ごしていく中で、自分が将来この環境でああなりたい、こうなりたいというビジョンが徐々に不鮮明になっていったことや、転勤の多い会社だったこともあって、この環境下でどこまで続けられるのだろうかという不安を常に抱くようになり転職を考えるようになりました。最後にいた部署が期限付き赴任のような形だったため、その期限が切れる8月末を退職のタイミングと決めて会社へ申し出ました。

 

・なぜ無職を選んだのか(なぜすぐに転職しなかったのか)

大きな理由としては、転職活動をするにあたりどうしても引っ越しをして生活環境を変えたかったという事情がありました。退職時、私が仕事のため居住していたのは地元でも何でもない地方都市。地元から海すら隔てた遠くにある都市のアパートで1人暮らしをしていました。

地元でも何でもない都市で再就職する気などさらさらなく、かといって地元就職を果たし、20代半ばの今から地元に根を張ってこの生を全うする気もありませんでした。

前職の職種で再就職する気もほとんどなく、無限大に広がる選択肢の中からじっくり検討をして自分が取り組むべき仕事、ひいては自らの人生について考えてみたいと思いました。それに、地方では受け皿となる職種がかなり限られちゃう可能性が高いという事情もあります。

住んでいる場所によって選べる仕事が制約されてしまうということを嫌がって、結論、まずは多種多様な雇用が口を開けて待っているであろう東京都へ引っ越し、都心で職を探すことに決めました。地方に住みながら東京で何度も面接、というのも非現実的なので。

晴れて東京デビュー&無職デビューです。

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11月24日(木)、雪の浅草寺です。キレイですね~。無職だから見に行けました

できる限り世の中のことをたくさん知りたいという気持ちが強かったです。自分の生き方に合うのはどんな仕事なんだろうか。どんな向き合い方が必要なんだろうか。その答えを出すためには、世の中のたくさんのことを見て、話を聞いて、知って、相対的に自分のことをも深く知る必要があると思いました。今後どんな道に進むのであれ、自らの選んだ道を、職を好きになって、胸を張って歩き続けたいので。

就職活動を行い、内定をくださった4つの企業の中から、最終的に将来のことも考えて最も意味のある出会いだなと感じた企業に進むことに決めました。

 

ここまで、前置きとして無職になった経緯を簡単に紹介させていただきました。ここからが表題の中身です。本編です。

 

1. 肩書きや所属がもつ力ってすごい!

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無職には肩書きがありません。これまでは学業を修める学生であったり、企業に属する会社員でしたが、その肩書きが無職になって消し飛びました。これが結構重大な出来事だということに、無職になる前の段階ではまるで思いも及びませんでした。

まず、無条件では家が借りられない。

考えてみれば無理もないことです。貸す側の立場に立てば、今後いつ支払いが滞るかも知れない客と契約を結ぶことはリスク以外の何物でもありません。

私が9月に東京都へ引っ越す際には、まず当時の銀行残高を示すことで信頼に足る支払い能力があるのかどうかの審査を受け、さらに家族を保証人として置くことでなんとかマンションの一室を借りる契約をすることができました。無職として社会で生きていくことの障壁に最初にぶち当たった瞬間でした。ぶち当たったというほどでもなかったです。右ひじをこすったぐらいです。

肩書きで困ったことといえば、意外と生活の中で肩書きを聞かれる場面というのは多いものです。何らかのサービスに会員登録なんかをする際には結構な確率で職業を答える欄があります。自ら進んで無職になったとはいえ、見ず知らずのそこらへんの店員にいきなり「わたし無職です!」と胸を張って自己紹介するのもどうかと思いましたので、誤魔化してよさそうな場面では大体「会社員」と答えていました。でも交通違反で警察に捕まったときにはさすがに嘘をつけませんでしたね。正直に何の仕事もしてませんと答えると、道端にたたずむうんことかを見るときみたいな顔になってました。無職なのに7,000円も取られました。クリスマスイブに。さきほどこすった右ひじから下が今度は引きちぎれる思いでした。

肩書きが何もなくなってみて改めて振り返ってみると、在りし日の私はいかに肩書きによって守られていたのかを痛感することとなりました。肩書きの重みです。健康保険や年金なんかの手続きも、個人としては思考停止していても会社が全部やってくれて給与から天引きしてくれるので楽なもんです。一方で、自らが働いてやっと得た給与の一部が、どこにどれだけ流れているのかに企業の庇護の下では鈍感になってしまうのも事実だと思います。無職になってその手続きのいかに煩雑なものか、金額のいかに大きなものか、自宅に納付書がダイレクトに届いて初めて知ることとなりました。

 

2. 肩書きが変わろうと、自分自身は劇的には変われない。良くも悪くも。

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無職になる前は、正直、無職になったその瞬間に自分は最強になれると考えていました。自由に使える時間の量が増えるので、これまで仕事のせいでできなかったあらゆることが、夢見ていたことが、無職期間で一気に達成でき、その充足感から未来が明るく開け視界が開け燃費も上がり便通もよくなり人生がバラ色になる!!と思っていました。この表現にはある程度の脚色がありますが、ただ、ここを分岐点にして人生が明るく変化することに漠然と期待をしたのは確かです。

実際、確かにフットワークは軽くなったし、増えた時間でいろんなことをやりました。平日から車で観光地を訪ねてみたり、ひとりで登山をしてみたり、平日のセミナーに参加してみたり…。

ただ、思ったより充実感はなかったというか…。思ったより落ち着いています。慎ましく年末年始を過ごしています。むしろ、あれだけ待ち望んだ自分だけのための時間を使い切れず、結構暇だったのがショックでした。変わるための時間はあっても、自分自身が変われるかどうかはまったく別の話だということに気づかされました。環境にすべてを委ねて受動的になっているうちはダメなんですね。

マイナーチェンジはありますが、本質的な自分自身というのは長い時間をかけてゆっくりゆっくりとしか変化はしていかないものなのだな~と感じました。逆に、今後もそんな自分と死ぬまで付き合っていくことへの覚悟が必要だと思いました。いくら出世しようが何になろうが、自身の根本は揺るがないものです。自分の好きなところも嫌いなところも両方抱えて、自分自身を大切にしつつ、謙虚に生きていきたいものです。

逆に自分の外の社会に目を向けると、イメージだけが先行して実情が伴っていないものごとも多くあるような気がします。肩書きはすごいけれど人格が伴っていない人とかね。イメージだけについていかず、客観的な事象からものごとを見極める目を養いたいと思います。

 

3. お金がすべてではないけれど、お金は私を豊かにする重要な手段。

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無職には基本的に収入源がありません。働いていない人を金銭的にサポートしてくれる国の仕組みなんかはいろいろありますが、ここでつまびらかに説明するのは面倒なので各自調べてみてください。

生きていくのに最低限必要なお金というものが存在します。家賃、光熱費、税金、年金、健康保険料etc...。誰しも払わなければならないお金なので、基本的に収入が少なければ少ないほど、収入の中にそれらが占める割合というのは高くなります。逆に言えば、自分の意思で自由に使い道を選択できるお金というのは少なくなります。

アルバイトをするのは手段として考えました。いくつか派遣の登録をしましたが、事業所が自宅からことごとく遠い上、交通費は自己負担のため稼ぎ分が結構消えてしまうのが嫌だったので、結局一度も行かずじまい。新しい職で必要となる資格の勉強を家でしていました。それに、アルバイトの時給を計算して収入の見込みを立ててみるといかに正社員時代に稼いでいたかを目の当たりにする結果となりました。

限りある資金、そして無職生活を続ければ続けるほど目減りしていく資金をどのように効率的に遣っていくべきなのか。そう考えると、ある程度お金を大切に遣うようになったと思います。

具体的には、常にコストパフォーマンスを意識してお金を遣うようになりました。いかに限られたお金でいい思いができるのか。その考えでいくと自炊は結構楽しくやってまして、旬の食材は安くておいしいので最高だなと思いました。さらに生活時間を工夫して、生鮮食品が半額になる遅い時間帯に買い物をしたり。時間を売ってお金を節約するという考え方です。コンビニに行く頻度はかなり減りました。飲み会には欠かさず行ってましたが。

一度くらい遠くへ旅行したいと思いましたが、これもコストパフォーマンスの面から見ると満足度が薄いと思ったのでやめました。個人的な感覚として、遠くの知らない土地に行くことで得られるものは異国感や未踏の地を踏む達成感などがありますが、高い航空券代や宿泊費で割ってしまうとあまり多くのものが残らない気がしたので。それよりは近場でも自分にとっての楽しい要素を盛り込むことを突き詰めれば、海外旅行の高額なガイドツアーに申し込むのと同じくらい楽しいのでは?と考え、安宿に二泊三日でマイカーで房総半島を一周しました。一人旅のいいところを突き詰めた旅といった感じで十分に楽しかったです。

生きていくために必須のお金以外は、いかに自分を気持ちよくするかの目的に向かって遣われるべきだと思います。私の場合は、見栄のために遣うお金はあとあと何も残らない可能性が高いので今後できるだけやめようと思いました。飲み会のときは多く払ったりするかもしれませんがこれは見栄でしょうか。

 

4. いま目の前にあるものごとを一生懸命やろうと思った!

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(CV: 千秋)

自己啓発の様相を呈してきました。でも短期間の無職には自己啓発の効果があると思います。無職は広義の自己啓発。そもそも私が無職になった動機が自己啓発そのものであったのかもしれません。

2.の項目で膨大な時間を使いきれず結構手持無沙汰になり、ショックを受けたことに軽く触れましたが、なぜそうなってしまったのかを自分なりに考えると、確固とした「やりたいこと」「目指すもの」を自分の中で見つけられていないことが原因なのかな~とはじめは思いました。「やりたいこと」「目指すもの」がはっきりしていれば、実現するために必死に時間を遣うはずだと思ったからです。

ただ、「やりたいこと」「目指すもの」ってある日突然空から降ってくるようなものではありません。

ウ~どうしたらいいんだ~と頭を抱えたとき、こんなことを聞きました。

「人は何かに『没頭』できたとき、その対象を好きになれる」

「『好きだから没頭する』のではなく、『没頭したから好きになる』」

http://banqmosh.com/horiemon-methodより抜粋)

なるほど一理あるかもしれない、と思い、目の前にある物事に対してどうやって一生懸命になるかについて考えるようになりました。

そもそも将来なんて世界情勢も変わるし、逆に今できることなんて目の前にあるものごとを必死にやって極めることぐらいしかないかも?と思うようになりました。将来どうしたいかのビジョンは漠然としてはいるものの頭の中に存在していて、その梯子となる進路を選ぶことができたと現在は考えています。ただ、このまま進み続けて順調にそのビジョンを達成できるかどうかは実際にやってみないとわかりません。もしかしたらその先で新たな魅力的な選択肢が見つかるかもしれません、そのときはそのときだと思います。どうにもならなくなったらまた別の道を探ればよいのです。

 

5. 明るい無職はちょっとウケる。

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最後にしてこれが最も重要です。

世間的に無職は暗いイメージです。就職したくても様々な問題でできない人もいます。

私は幸運にも早い段階で次の働き口を見つけることができました。

この年代で大体の人は知り合いにあんまり無職がいないので、このレアリティを利用し、初対面の人に無職なんですけど…と切り込んでいくと、割とそこから無職になった経緯や生活の状況なんかに話が広がったりしたこともありました。

私も無職になる前は、「無職」に明るいイメージなどありませんでした。むしろ、暗いイメージの言葉だと思っていました。

ただ、「会社員」でも失意の中生きている人だっているはずで、現に一流企業にやっとの思いで就職しても自殺をしてしまう人がいる世の中です。肩書きだけですべては語れません。

自分の生きたいように生きるために、ちょっと抵抗はあるけれどイメージにとらわれず寄り道をする選択をしました。そんなやり方を身をもって周りの人々に示せたことはよかったのかな~と思います。

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ナイス無職!

 

6. さいごに

会社をやめて無職になったのがよかったかどうか、その答えはずっと先になってみないとわからないでしょう。ただ、シームレスに転職をしてしまったらきっと見つけられなかったことを結構たくさん見つけることができたと思います。

まずは新しい仕事を全力でやります。Good Luck!

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駄文でしたがここまでお読みいただいてありがとうございました。

スーパーマーケット・ファンタジー

東京に移住して最も行くようになった場所は、都心のビル群でも新宿とかの歓楽街でもなくて近所のスーパー。1日2回行く。暇人は1日2回スーパーに行く。地方から移ってくる前の東京暮らしのイメージ、それは電車に乗っていろんな場所に行けるのがハッピーだと思っていたが、冷静に考えたら電車賃って高いし、最寄り駅のエリアにとどまっていてもそこそこ楽しいし大体のものは手に入るし経済的。書店とか薬局が入った複合商業施設っぽくなったスーパーに行けば大抵時間が潰せる。スピッツ草野正宗は船に乗る訳じゃなくても港に行くと歌っていたが、私は特に買うものが無くてもスーパーのドアをくぐる。空っぽのカゴを抱えて主通路を歩く。

毎日スーパーに行くと微妙な変化にも気付くことがあって、必ず入口付近に陣取っているりんご、昨日まで138円だったのが今日は98円に値下がりしていたり、担当者の発注ミスのせいなのか知らないけれど当日までに消費しなければいけないという期限の生たらこのパックが半額シールとともにものすごい量が陳列されていたり。94円の鶏もも肉と同じぐらいの量が陳列されていたけれどたらこってそんなにユーザーいないだろう。パックで500円ぐらいするし。しかし翌日になると全部撤去されて辛子明太子のコーナーに生まれ変わっていた。破壊と創造。1日にパック1つ分ものたらこを食べたら身体の中の何かが確実に破壊されるであろう。そしてあの生たらこ達の現在の行方は誰も知らない。

スーパーマーケットの売場ひとつにも幾多のストーリーがある。侮るなかれ。年中無休で物語は生み出され続ける。ドアをくぐってカゴにほしいものを詰め込んで、レジを通ってドアから出ていくまでの流れの中に、目を凝らすと我々はいくつものドラマを目の当たりにすることになる。半額シールを手にした白衣の惣菜担当者。その後をつける人々。思わずカゴの中身を戻す人々。お揃いの弁当を選ぶカップル。大量陳列されるメジャーな野菜。割高で数の少ないマニアックな野菜。担当者の気まぐれで偶発的に産み出されたのであろうマニアックな惣菜。30%OFFになっても売れ残る惣菜。私がレジ袋に入れて持ち帰るのは、単なる品物ではなくドラマを通り抜けてきた産物と言えるのかもしれない。大いなる時の流れの中で売れ残り値を下げられるという比較的屈辱的なドラマをくぐってきたと思われる98円のりんごを噛みしめたら、確かに新鮮さが欠乏しているせいなのか舌触りが微妙だった。物語にはルーツがあってそれなりの帰結がある。起承転結を噛みしめる。噛みしめたそれらは明日の私の血肉となり、活力となる。明日また物語を回収しにいく。