beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

マグマ

思いがけずソファの上で目を覚まして、その後2時間くらい横になりカーテンも閉め切ってウダウダと携帯を見て、起き上がろうとしてやっぱりやめて、を繰り返してようやく外へ出たのが12時半ごろ。気晴らしをしたいという気分すら晴らしたかったので郊外へ車を飛ばして、今日も今日とてもりそば。曇りのち雨と言った天気予報に反し晴れ間が断続的に続いていたので、かねてから行きたいと思っていたガーデンショーに足を運んだ。街のはずれから反対側の方向へ移動したのでガソリン残量が虫の息で、懐事情も虫の息で、もうガソリンなど入れたくない。夏の季節はガソリンが減る。雪とかないからどこにでも行けてしまうのと、クーラーをガンガン入れるから。

自宅にカメラを取りに一度戻ってからガーデンショーに足を運んだが、いざ会場で電源を入れた途端に電池残量が点滅し始めたので時間の勝負だと思った。普段催しものをまわる時に掛ける時間の70パーセントぐらいの時間で全部まわって、できるだけ多くの種類の写真を懐に収めて帰ろうと思ったが入口から70パーセントぐらいのところで事切れおった。独自計算上電池フルの状態の49パーセントしか満喫できなかったこととなり、同じ入場料を払ってこれはあんまりなのでまた電池をフルにして来場しようと固く誓った。懐事情が虫の息なのにも関わらずまた入場料を支払おうとしている。

クサい言い方になるが最近ではカメラを構えている瞬間に自分が最も輝いていると思う。同時に2位に後退したのは音楽を聞きながら車を運転している瞬間であって、すなわち車を運転して辿りついた先でカメラを振るうまでの一連の流れがワンツーフィニッシュで極上の趣味となった。メインディッシュとして世界三大珍味のうちのキャビアとフォアグラが同時に供されるようなものである。トリュフ的な瞬間は未定。惜しくも電車で赴いた先の阪急電鉄嵐山駅の照明がいやに気に入って、このきらびやかな雰囲気をうまいことカメラに収められないだろうかと思い絞り値やらISOやらと最近学んだデジカメ知識を振り絞って、構図もあーだこーだと迷って理想の写真を追い求めたがついにそれは収められず、発車の時間が来てしまった。このこだわりをもっと別の場面で活かせたらと思う。どこで始動するかわからないこだわりセンサーみたいなのが自分の脳みそにはあって、感知すると突然夢中になってしまってその場を離れられなくなることがある。この前は近所の公園の蛇口でうまいこと流水を撮影するのに必死になっていて、その結果物をフェースブックのトップで拝めるようにした。

そもそもどこにでもカメラを持っていくようになったのは風景を切り取りたいという欲求がいつでも懐にあったからで、風景を切り取ってどうするかと言えば誰彼と共有したいという欲求が強かったからで。緑の写真をたくさん撮って自然を愛していると見せかけてもやっぱり人に認められたいという欲求のしたたかさを改めて感じました。そう考えれば最近私と同い年ぐらいの人がミニマリズム万歳と言って量販店を貶めるようなブログを書いて顰蹙を買ったのも、自分が写真を撮るきっかけもそう大差はないなと思ってむしろ親近感が湧く。12歳ぐらいで思春期が来て、15歳ぐらいで反抗期が来て、19歳ぐらいで大人しくなったと思わせておいて25歳ぐらいの段階では承認欲があらゆる方面へと枝葉を伸ばすのが全国的に人間に当てはまる傾向なのか。サンプル数が現状N=2と寡少なのでなんとも言えない。しかしその欲を活かすか殺すかはあくまで手先口先の加減であって、尖っている人間も凹んでいる人間も根幹には熱いマグマのような欲求を持っているのかもしれないと思う。よってマグマをうまく引き寄せることが人を手懐ける術になりうるのではないかと考えた。

休日に関しては、普段休火山のような私めの内側のマグマを急速に走らせることと、そこにストレスを感じず徹底的にやることに徹したい。「徹底的にやることに徹したい」とは「頭痛が痛い」と同じ種類の言い回しだろうか。最近思い出したのが、中学3年生の時に海外に行ったカルチャーショックや楽しかったことをふざけて長編の日記にして提出したら間違えて市の文集に掲載されてしまったというプチ武勇伝で、思えばあの頃からふざけてダラダラ文章を書く瞬間にドクドクとマグマが走っていたのだなあと思った。あの日に戻れるなら自分のマグマに敏感になってから進む道を考えろと言いたい。

f:id:oszq:20150710221051j:plain絞り値F=6.3。最初F=22で撮ってみたら電灯のあたりがクソヘボい写真になった。