beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

大モンゴルに愛を

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昨日は電車で東京駅にいきました。観光地食い物に観光地価格を払うよりも、例えばサラリーマンが日常的にかきこむ食事を戴くほうがその土地に来た実感があり魅力的。東京チカラめしが閉店していたので富士そばで大盛りを注文する。リニューアルされた駅舎を見た外国人観光客が、後ろのほうで「ビュリフォゥ」とこぼしたその発音こそが最もBEAUTIFULだった。ほかに特筆すべき事項なし。

地下鉄で築地市場に行きました。海鮮ならわざわざ東京で食わなくても、北海道に帰った方が安く食える。市場で勤め中の人々と、それを見学中の暇人たちといういわば対極の集団が一挙に押し寄せしかし、それらが関わることは一切ないのが奇妙な見学施設だなと思いました。趣のあって多少生臭い市場施設の背景として高層ビル群がそびえる風景を、わたしはいたく気に入ってしまった。ミスマッチや場違いなどという評価はあくまで個人の主観によるものであり、一般的なものではおそらくない、だからきっとこういうアンマッチを愛する感性も許されていい。

最近読んだ小説に浜離宮恩賜庭園が登場した。雨の日、夫婦と主人公の男がここで装束の集団に連れ去られ、謎のビルに監禁される。モデルとなった庭園へ行ってみようと思ったが入場料に怯んだので、券売所の前で引き返す。地下鉄で両国へ向かう。


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大相撲を観戦しました。券売所で並んでいたら自分の目の前で安いイス席が完売し、中途半端に近くて料金の高い1Fマス席というのが割り当てられた。力士の人気不人気というのはハッキリとしていて、傾向としてはモンゴル人力士などは横綱大関ぐらいまでの最高峰力士を除いてあまり人気がない。やはり日本人力士というだけで一定量の歓声を浴びせられる。その中でも特に人気のある力士というのがいて、土俵に立つと物凄い歓声が起こり、対戦相手のモンゴル力士などが集団リンチを受けているかのような様相だった(わたしの観戦したその取組では、両者譲らぬ接戦の末モンゴル力士が一気に土俵の外に押し出された瞬間にワッと歓喜の声が上がる)。こんなにも多くの人が応援するのは、果たしてみんなが応援しているからじゃあ僕も、というやつの連鎖なのか。テレビで特集されるのを見たことがあるからか。生い立ちか育成のサクセスストーリーが感動的だからか。それならモンゴル田舎地方のゲルで育った村一番の力持ちが、日本で力士として活躍し祖国の貧しい父母兄弟などを養うというストーリーなども、一般の日本人には知られていないだけで同じくらい感動的な気がする。只今モンゴル人力士に関してわたしが適当にでっち上げた感動的なストーリーですが、これが万一実際のものであったとして、それは「周りのみんな知らないから」という理由で目もくれられず埋没していたとしたら勿体ない話だなと思った。この世にはこのような勿体ないものがたくさんあり、それらをできるだけ減らしていくところに生き甲斐や営みというものをわたしは感じる。

座布団は投げなかった。迷惑なのでくれぐれも座布団は投げてくれるなと会場アナウンスで告げられたのは、熱湯の上で四つん這いの芸人が絶対に押してくれるなと喚いている、あの伝統芸能と同じやつかなと思ったり思わなかったりした。

航空券予約のリマインダーメールが届く。普段使うメールアドレスは記憶されていて、それをTo:欄に貼りつけて転送ボタンを押すだけで携帯端末に転送される。届いたメールを開き、QRコードを表示、保安検査場で掲示すれば飛行機に搭乗でき、私を遠く北のほうへ移動させてくれる。こんなハイテク時代にハイテク端末を駆使して、さてわたしが現在行っているのは、文章を書く、という有史以前から存在した原始的な人間の営みである。この勿体なさとは、つまるところ、余裕とも置き換えられる。