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愚痴を書くブログ

カベ・トーク

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振り返ってみて2017年はマラソンに傾倒していた年だったと思うが、2018年はもっぱら山に登っている。山にいてる。それもまだ2018年も序盤のころであれば走りと山登りとを織り交ぜたトレイルランニング““的な””ニュアンスを多分に含む山行を楽しんでいた記憶もあるが、最近はどうだろう、もっぱら山歩きと森林限界を超える山行を週末の楽しみとしているフシがある。

大学を卒業してまだまだ若かったつもりが今もジューニブン若いものだが、それでもアラサーというフェーズに差し掛かった近頃、いくぶん歳を重ねたことを感じる機会が多くなってきた。テレビに出る若い綺麗な女の子は大抵年下だし、「おっさんジャパン」と揶揄されたほど年齢層が高かったというサッカーロシアW杯の平均年齢もなんだかんだ言って私の年齢ドンピシャだったとのこと。時の流れるスピードが少々速すぎやしませんでしょうか。そしてここ1年ほど走ることから何となく遠ざかってしまったところで、今度はひとつランクを落として「歩き」に目覚めてしまったというのが私の顛末。

なぜ走ることから遠ざかってしまったのかと考えてみると、普段あんまり走る時間を取れなくなってしまったことでたまに走っても速くない、速く走れないから面白くない、という三段論法的な感情的な理由が一番大きいのかなという気がしている。かつて活発に打ち込んでいた人が徐々に離れて行ってしまう要因となる「3つの壁」というものがあって、1つ目は仕事が忙しくなったり家庭を持ったりすることで打ち込める時間が少なくなってしまうという「時間の壁」、2つ目は「時間の壁」により下がってしまったパフォーマンスのまま続けていても面白くないと思ってしまう「プライドの壁」、3つ目は毎年毎年シーズンになればトレーニングをして決まった大会に出て、という繰り返しに飽き飽きしてくるという「マンネリの壁」、とのこと。以上は““大人の人””からの完全なる請け売りでありますが、ここ1年ほどのうちに、森であれロードであれ、走ること全般に関して「(仕事による)時間の壁」⇒「(キロ6でしか走れない)プライドの壁」に綺麗にぶち当たってしまった私には理解が容易い。

その点山登りについては、誰かと時間を競うでもなく、競わないので特別な日常のトレーニングが無くてもそこそこ楽しめる、さらに山上での食事や風景写真をいかに手中に収めるかなど付帯的な面白味もある。かつては““速さを競っていた界隈””が近頃急激に山登りに傾倒し始めているのは、ここら辺の心のムーヴメントが多くの人の中にも同じようにあったのではなかろうかと踏んでいる。

そんな私も、雨予報だった今朝は久々に自宅近辺を走ってみることにした。平日ほとんど運動をしていない分体重もそこそこ増え、1km6分のジョグもそこそこしんどいという身体になってしまった。1年足らずで身体というものはなかなか変わってしまうものである。キロ6分でチンタラ走りながら思い出すのは走るのが一番速かった高校生のころのこと、マラソン大会で学内をトップで駆け抜ける姿が卒業アルバムの1ページに収められた。あのころ23分で走れたコースも、今日のペースで行くと40分以上かかる計算。もう若くないからしょうがないよね…という諦めもありながら、でもやっぱりあの頃のように速く走りたいなと思う気持ちがあり、ところがどっこい社会人を続けながらあの頃のように死ぬほどトレーニング積むことはできないしな…と絶望する部分もある。大人をやるというのは常にこういう葛藤と戦って生きていくことなのだろうなと思われます。学生時代に長い時間をかけて醸成されてしまった「プライドの壁」というのは大きく高く、その点学生時代の経歴がなく社会人になってから走ることを始めた人は強いなと思うことも多い。涼しくなる9月は、通勤カバンにウェアとシューズを詰めて業務が早く終われば皇居に向かおうかと思う。またしても、、またしても!!何らかの理由をつけてあえなく3日坊主に終わる可能性も否定はできまい。