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愚痴を書くブログ

容器と内容物

人生の終わり For Grandmother / THE YELLOW MONKEY - YouTube

血が泣いてる

身体を企業に、臓器を社員に、脳味噌を管理職に喩えるメタファーに遭遇したことがある。企業としての意向と目標を達成すべく、社員を代替可能な歯車として無慈悲に扱う態度は結果的に働き手の意欲低下などをもたらし、社内全体の崩落を招いてしまう可能性すらある、といわれる。話を身体のほうに転じれば、頭では無理なしと判断して我慢をし続けていても身体のほうは本当に正直で、負荷をかけ続ける結果としてどこかしらに支障を来す可能性があるとのこと。そこへくると、毎晩酒を飲み続けた私の身体の部位たちのことを考えるとそれらはもはや疲弊した会社員たち同様で、とりわけ肝臓などはエース選手として毎晩酷使された結果定時退社などはもってのほか、帰宅が日付を越えることも少なくはない状況。長く世話になってきた、そしてこれからも長く付き合うであろう容れ物としての我が身体だから、無理強いをしたり不健康なことはできるだけ避けて健康的な暮らしを送るよう心がけたい、と、翌朝アルコール漬けになった胃腸の重みを感じながらにして思う。

東京という街に出てきました。人口密度最下位の某海道から出てくるとその人の多さに圧倒される、ことにも慣れた。そんなに多くの人々が普段どこに潜んでいるのか。SFではないが、世の中の半数くらい、ひいては自分以外のすべての人々が実は私の見ている世界を装飾するために仕向けられた、体温のない容れ物だけ仕立てられたエキストラで、私のように意識でもって世界を体感しているわけではないという説もなるほど納得できてしまう。他者が世界をどのように体感しているのかどうなのかなど私には厳密には確かめようがなく、こんなにたくさんの人々の意識を生産していられるほど神様も有能ではないのではないか、と。人生をドラマに例えるとき、これだけ多くのドラマがあればきっと脚本家や監督業界は慢性的な人手不足に陥っているに違いない。

キャリーケースを引いて人混みの駅前を歩く私は言うまでもなく完全なる余所者で、かつ大草原を歩く迷える子羊の気分である。まるで街全体が、そこにいる人々すべてが、自分とは一切関連がないエキストラや背景のようなもので。ただそのエキストラのなかにも、私と同じようにキャリーケースを引いて駅前を歩く迷える子羊界隈の人々は少なからずいて思わず安心感を覚える。ただしその安心感は恐らく意味がない見かけだけの物だと思う。私は思わずエキストラに安心するほど愚かである。