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愚痴を書くブログ

2014年のクソくらえ

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帰り道、信号をぼうっと眺めていて思い出したこと。昔小さい頃、「青信号」というのに実際のところ「緑色」なのが死ぬほど気に食わなかった。昔は死ぬほど気に食わなかったのが、歳を経るごとに段々どうでもよくなってきて、今となってはそんなこといちいち気にしなくなった。信号の色が緑だろうが青だろうが、灯ってくれてさえいれば大人の生活にはなんら支障が無いのです。そうやってなんら支障のないことを意識下から無意識下へ徐々にフェードアウトさせていくのが、ある意味で「歳をとること」なのかなあと思いました。

それ自体でどちらがいいとか悪いとか、単純には割り切れない問題というのがこの世にはたくさんあります。というか、そういうものばかり。歳をとって「どうでもいいこと」を「どうでもいい」と切り捨てる行為が「世界への順応」と見なされるのか、それとも「もったいないこと」と見なされるのかは見る側の主観によるところだと思う。たとえば大人の社会的には、無駄を切り捨てて効率化することが善なのかもしれない。たとえば子供の社会的には、なにごとにも好奇心をもって疑問を投げかけ続けることが善なのかもしれない。問題は見る者の判断尺度によって評価が大きく変わる。だから、いっときの善悪の尺度ですべてを割り切ってしまおうとする態度は、どんな場合だって早計なのかもしれないと思いました。

常識が時代とともに反転することだってあるし、同じ時代だって北半球では正義とされていることが南半球では悪だとみなされるのかもしれない。まさに地軸の傾きによって北半球と南半球で夏が来る時期が入れ替わるみたいに、時間と場所でなんでも入れ替わる可能性があるのがグローバリゼーションなんじゃないですか。知らないけど。たとえばそこが「正義」だと思って安住してたら、いつの間にか「正義」の居場所がわからなくなりそう。もっと言ってしまえば、「正義」を守っていたはずの自分がいつの間にか「正義」からフェードアウトしてたみたいな出来事が降りかかる頻度がきっと高い。変化の多い道を進むなら。でも正義も悪もなんも関係なしに自分は自分であってそれ以外の何者でもないし、何が正義か悪かにこだわらず、揺れず、僕は僕のままで、尺度が揺れてる時代をまっすぐに駆け抜けたいと思いながら人生について考えています。