beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

曇り空

午前中はスッキリと晴れ渡っていましたが、昼を過ぎて3時ごろになると雲が出てきて小雨がパラパラと降り始めました。ここまでほぼ予報どおり。天気予報は信用ならんと騒ぎ立てるが、それは「当たって当然」と深層で思い込んでいる上でたま~に外されるのが事件になるからであって、だいたいの場合は当たっているものだし、当たっていることに関してはほとんど誰も言及しないものだから天気予報士は大変だなあと思いました。

曇りの日というのは気分的にはすぐれないが、哀愁があって愛着がもてる。曇りの日はあんまり注目されない。印象には残らないけれど、人生の中の膨大な記憶を振り返ってみると幾多もの曇りの日があり、踏み越えてきたたくさんの風景のうち結構な量が曇り空を背景にして記憶の中に埋め込まれている。せっかくの晴れ間を覆い隠したあいにくの曇り空も、今にも雨が降り出しそうな重く暗い曇り空も、同じようにそれぞれのシーンで抱えていた心境とシンクロして記憶の中の風景を彩っている。

夕焼けの写真をwebに上げる人は頻繁にいるので、きっと夕焼け空の美しさは誰もが共感できるところだと思うのですが、曇り空はそれ自体で映えるものではないのでその美しさについて共感を求めるのが難しい。あの時の曇り空は綺麗だったなあとはならない。けれど、たまに空を覆う雲を眺めて、その様子から故郷の通学路や頻繁に通っていた場所を思い返してしまってずいぶんと懐かしい気分になることがある。あの頃もそういえばこんな風にどんよりしてた、こともあったな、って。何の変哲もない曇り空など、とりたてて写真に残していることもない。だからすぐに取り出せるものではない。ただ、それ自体に魅力が少ないからこそ、逆にその当時の自分の状況や抱えていた心境が鮮明に思い返される。それらは空の色とセットで何の変哲も無かった日常の一部として重層的に切り取られていて、だいたいは記憶の中で永久に飼い続けるのみで終わってしまうのだと思います。簡単に共有できないのがもどかしい。

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こんなふうな何の変哲もないような畑や住宅地の写真こそが、心の中にひっそり飼っている風景をひとつひとつ掘り起こしていく。この近くに友達の家があって、小学生の頃によく遊びに行ったな~なんて。自分の家からは若干遠く(2kmもないくらいだが)、当時の自分からすれば結構な大冒険だった。小学校のルールで原則、大人の同伴がなければ学区外に出ることが禁止されていて、学区の端スレスレのこの地域で遊ぶのはスリルもあった。たまに巡回してる先生たちに見られたらどうしようみたいな。遊び場と言えば学区の中だけだったから、学区の中のことしか知らなかった。年齢を重ねるごとに自分の足で到達できる範囲が拡大し、いろんな世界のことを知った代わりに、畑とか森みたいな、そこらへんにあるような身近な風景を大事にする心は薄れてしまった。

曇り空の風景なんかそこに行けばいつでも撮れる。でもあえて曇りの空を撮ろうとするのは、その風景を記憶の中で飼ってるからこそ、美しいと感じるからこそであって、何にも知らない外の人がその曇りの風景を見てもなんとも思わないだろう。僕が記憶の中で飼っている風景の多くはここの街のものです。同じように、この風景を心の中で飼い、その美しさを共有できる人がいることはとても尊いことだと思いました。 

余談ですが「花曇り」という言葉が好きです。曇り空に魅力を見出そうとする心意気が感じられてよい。この言葉を考えた人に会ってみたい。

 

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*1:この写真は八戸からというサイトからお借りしてます。「photo」の「館越山」から見れます。同じ地区出身の人なら、自分を育ててくれた風景たちにちょっと見入ってしまうのでは。