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愚痴を書くブログ

私の内臓

アルコールで内臓へ散々負荷をかけた翌朝に目を覚ますと、案の定身体が悲鳴を上げているのが聞こえるようで憂鬱になる。健康や寿命というものを擦り減らした代わりに得たものがカラオケ店でのバカ騒ぎだったのか。20年以上大切に育てられた結果としてこういった扱われ方をする臓器が不憫だなあと思ったり、臓器含めた肉体と精神とを愛情を以て育て上げてきてくれた数々の人びとにまで申し訳ないという配慮が及んで、そういった一連の感情たちをひっくるめた憂鬱が体調の悪さに加勢してどんよりと圧し掛かってくるからなかなかお布団から起き上がれない。小学生くらいの時に、ビデオで妊娠から出産までの妊婦と赤子を追ったドキュメンタリーを見せられる授業があって、人の命というのがどれだけ尊ばれ、有難がられて生まれてくるのかを痛感した記憶がある。せっかく産み落とされた身体をこの20年余りで有効活用できず、あまつさえ無駄に消耗してしまっているとしたら、これまで育ててくれた人にせめて「育ててきた甲斐があった」と言わせしめるところの「甲斐」とは、この私自身が何をどの程度どうすることで挽回されるものなのだろうとたまに考える。

肉体と精神両方に係る憂鬱を晴らすために少しジョギングをして、昼食にはうどんを選んだ。身体に負荷が掛からなさそうだから。案の定、塩気を低めてその補填としてこれでもかというぐらいダシの風味を利かせたような一杯だった。聞いた話だと憂鬱は水に溶ける性質があるらしいので、銭湯に行ってボーっと考え事をしてみた。最近ある著名人の自伝を一気に読み終えてその影響が尾を引いている。20代のころは寝る以外の時間をほとんどすべて投じて仕事をしており、果たしたい目的が常にあったから、暇な時間など一瞬たりとも無かったのだと著者は繰り返し言う。対して私には膨大な余暇が与えられており、果たしてその時間を使って人生における何の目的が果たせるのだろうか。一瞬頭を捻ってみたところで突然に空から降ってくるような問題でもないことは明白で、ゴールが設定されないことにはそこまでに果たさなければいけない課題というものも見えてはこない。

ただ漠然と、何かここで生きていた証拠みたいなものを後世に残したいという野望だけならある。上で触れた自伝の中で著者が「中学生ぐらいの時に途端に死というものが怖くなり、どうしようもなくなった」みたいなことを書いていて、これは普遍的な現象であってある種の通過儀礼のようなものなのだと知った。私なら「いつ死んでもいい」と思えるように後世に残るような自分の記録をどこかに置いていくことでその恐怖を乗り越えようというのは何年か前から決めていること。何年か前から決めている割に事業が進行している気配がないのは、単に私自身の怠慢によるところなので私の中の私が私自身に対して痛切に反省をしなければならない。とにかく、私ならそういった形で産み落とされた「甲斐」を達成しようと考えている。そのために、どれだけの時間が必要かは分からないので、少しでも時間を手に入れるために内臓は守っていかなければいけないし、致命傷になるほど内臓が傷む前に果たさなければいけないと思う。