鰐を叩く
男は一台のゲームマシンの前で立ち止まる。
右の手元には黄色いハンマー。取っ手は桐か何かで出来ているのだろうか、非常にすべすべしており、乾燥した手の平でもって握りしめたところで容易にすっぽ抜けそう。目前には5個の洞があり、それぞれの奥には暗がりの中に緑色の野獣が潜んでいるのが微かに確認できる。本日のスゴウデ「65」。こんなスコアなど15年前の自分にも出せる。いわんや今日の俺をや、である。しゃらくせえ。
男は息巻いて小銭入れを取り出す。
思えばワニを叩くゲームが好きだった。ゲームセンターに連れて行ってもらって、母親、もしくは父親とエアホッケーで勝負して、洞から出てくるワニを叩いて、アンパンマンのポップコーン工場で毎度違う味のポップコーンを食べてから帰る。それがゲームセンターに遊びに連れて行ってもらった際のお決まりのローテーションであった。類似品でカニを叩くやつもあったが、しっくりこなかった。あんぐりと開いたワニの口を叩いて強引に閉ざすのは、世にはびこる悪や忌わしさを潰すような心地があり快感だったから。全国のカニ関係者に申し訳ないが、右から左へ移動するカニを叩く行為から得られる快感があったにしても、ワニのそれには及ばなかった。
ハンマーのすべすべした感触からはワニを叩いた日々の様々な思い出がよみがえる。夏休みにスイミングスクールに行った帰りの夕方、親の買い物ついでに連れて行ってもらったデパートのゲームセンターの風景。知らない街で催された結婚式に父親が出席した際、男を含む残りの家族は近くのレストランで食事を摂り、隣接するゲームセンターで時間をつぶした。知らない街の知らないゲームセンターで静かに過ごした夜のこと。外は暗がりで客もまばら、すっかり沈滞した雰囲気の中に、せめてもの景気づけにと言わんばかりにギラギラ輝くゲームマシンたちがあからさまに場違いのようで、でもその空気がずっと続くような気がして、幼ながらに切ないなどという感情を一人前に抱いたものであった。
思い返せばあの頃はたしか世紀末。15年も前のことだったのかと思うと、時の流れの速さに戦慄せざるを得ない。余談だが洞から出てくるワニは確か比較的愚図なので、その動作は時間の流れよりもきっと格段に遅い。
改めてハンマーを握りしめる。すべすべした手触りはあの頃も今も変わらない。変わってしまったのは男のほう。いつの頃からだろうか、ワニを叩く機会も無くなってしまった。ゲームセンターに行く機会がそもそも無くなった。ワニを叩くときの快感や「本日のスゴウデ」になれた時の達成感など、ワニを叩くことに関するあらゆる記憶は男の脳裏からは少しずつ、まるで砂時計の砂のように時の流れとともにサラサラと流れ落ちてしまった。
脳内の記憶は砂とは違ってサイズが均一ではなく、中には粒子の大きいものや小石などもあるだろう。大きな粒子はボトルネックになっている部分を通り抜けられず、上半分に留められる。取るに足らない細かい粒子だけが、下半分の空洞へ滑り落ちていく。記憶に関しても、有用なものや、今後どこかで役に立ちそうなものだけがボトルネックを通り抜けられずにその手前で留められ、いつでも掬い上げられるようになっている。対して利用価値のない細かい砂のような記憶は、底の深い下部の暗闇のほうに古いものから堆積していく。そうして埋もれて奥底で化石のようになってしまっていた記憶を突然に呼び戻すような出会いが、およそ15年の時を越えて、訪れた。
慰安目的で訪ねた山奥の温泉旅館だった。温泉旅館の片隅に申し訳程度に設置されているゲームコーナーにはスロットのゲームと、UFOキャッチャーとアーケードゲームの筐体が何台か置かれている。その中央にワニを叩くゲームマシンが座している。ワニを叩くゲームなどすっかり過去の遺物になってしまったとそれまで思いこんでいた。山奥だから時代の移り変わりの波から取り残され、未だに現役として叩かれ続けているのだろうか。いや、本気でこのゲームを楽しむような子供はこんな山奥へはそうそう来ないであろう。
男は一瞬は躊躇った。100円玉をゲームマシンへ投じることに対して。ここで投じる100円は果たして自分に何の恩恵をもたらすのか。ワニを叩くのに100円。ワニを叩いたところで、未来の自分には何が残るのか。何度も何度もワニを叩いた幼い頃、母親は何を思って100円玉をそのたび男に与えてくれたのだろうか。かつてワニを叩けていたのは親の保護下にあって、その機会を彼らがわざわざ自らのために与えてくれたからであった。今は違う。男は自らの足で立っている。今度は自らが稼いだ資産で、自らの腕で、ワニを叩くのだ。
そうなれば、心は決まった。
100円硬貨を投入する。まもなく擬人化されたワニの肉声がゲームコーナーに響く。
「たべちゃうぞ~」
5匹いるうちのどのワニのものかは知らないが、その掛け声を合図に男とワニたちとの戦いの火蓋が切って落とされた。かつてはその幼さゆえ、「戦い」に関して愚かな態度をとってしまったと言わざるを得ない。ハンマーを握る右手、空気を掴む左手、その両方でワニを叩き高スコアを叩き出したものであった。そんな態度は、全力で洞と外の世界とを行き来するワニにとっても失礼な態度だと思う。心からお詫び申し上げたい。今は違う。古典的なルール通り、ここはハンマーのみでより多くのワニを殴ってやろうではないか。
一発目のワニは左から2番目。威勢よく飛び出してきたワニを瞬間的に、できるだけ速く、逃げられぬうちに、叩く。
「いてっ」
15年でここまで成長したのだ。男の力を見くびらないほうがいい。経験を積み上げてきた。知識も、能力も築き上げてきた。手加減などするつもりはないから、ワニたちからすればそれは痛いに決まっている。無邪気だったあのころとは違う。ワニの悲鳴など気にせず男は叩き続ける。なぜなら、真剣勝負だから。
「いてっ」
複雑なパターンにも惑わされない。この15年でいろんな人やモノに惑わされることもあった。だから惑わしさという概念には詳しくなった自負があるのだ。
「いてっ」
汗水たらして稼いだ100円が懸かった真剣勝負である。妥協している余裕などはない。
「いてっ」
スコアもろくに見られず、無心に叩き続ける。
陸上競技を経験した。成果はタイムや距離数という血の通わない数値によって計測される。だからこそ恩義や邪心に惑わされず、真摯に自らの成長に、もしくは鈍化に向き合うことができる。それがあの競技の魅力で、残酷さでもある。ワニ叩きも同じことである。男はこのワニ叩きのスコアに自らの15年間もがき続けた経験が間違っていなかったことを実証したかった。
「もう、おこったぞ~」
経験上、調子良く叩けているときにはこの掛け声を合図に、以降パターンのない複雑な動きを仕掛けてくることを知っている。ワニ側としても譲れないラインがあるのだろう。しかし真剣勝負だから関係ない。全力で勝負を仕掛ける。
しかしワニたちによる怒りの宣言から間もなくして、その時は突然に訪れた。
「パクッ」
―時が止まったかのような感覚。
おのれの実力不足か、はたまたワニの実力が上がったのか。それともその両方か。
とにもかくにも、男はワニに噛まれた。それは過去の自分からの戒めを暗示しているのか。15年前の自分から今の自分はどう見えるのだろう。途轍もなく立派な大人になどなれなかった自分への非難を込めた、過去の自らによる噛みつきかもしれない。
しかし、過去の自分にいくら噛みつかれようとも、今の自分にはがむしゃらに生きることしかできない。全力で目の前のワニを叩くこと以外に、自分にできることなどあるだろうか。あるはずがない。未来はそこからのみ開ける。なんとなく未来が保証されていると思っていた幼い頃とは違って、歳を取るごとに未来はなんと重みを増していくものか。がむしゃらに生きて自分の手で切り開くことでしか、明るい未来は訪れないのだ。そんなこと、過去の自分にはこれっぽっちもわかるはずがあるまい。
―まいったスゴイ。
89匹のワニを叩いた。1匹には噛みつかれた。スコアは88。
末広がりでいいスコアだと思った。将来は切り開かれたかもしれない。
何と言っても気分が晴れた。過去の自分に噛みつかれてハッとした。未来を切り開く覚悟ができた。たったの100円でいい経験ができた。
未だにワニを叩かせてくれる設備を備えていた温泉スタッフに敬意を表したい。
なお本業の温泉のほうは熱い湯の浴槽ばかりであまり長居できなかった。ぬるくて長湯が許される浴槽の準備を心から待望する。
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本題ですが、先日ワニワニパニックを15年ぶりぐらいにやりました。
またどこかで出会えたらいいな。