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愚痴を書くブログ

死神様にご挨拶

事件や事故に巻き込まれやすい性格や行動様式などはあるだろうけれど、それでも善良な市民としてつつましく暮らしていてもやっぱりある日突然のアクシデントで命を落としてしまう可能性はゼロではない。あなたも私も明日死ぬかもしれないという可能性を抱えながら、それでも毎日今日は死ななかった、明くる今日も死ななかった、という積み重ねで日々なんとか生きながらえている。リスクは絶対につきまとう。人とすれ違うことに命を落とすリスクはある。すれ違った人が懐にナイフを忍ばせていたら。車を運転することに命を落とすリスクはある。横を走るダンプカーが突然横転してきたら。家で大人しくしていたって家ごと津波に飲みこまれたりもする。自分自身の話ならまだいいが、これが自分の子供について、彼らですら常にリスクと隣り合わせであるという事実は堪えがたい。彼らに纏わりつくリスクから彼らを遠ざけるための方策を考えつくだけ挙げてなんとか一つ一つ実行することは可能だが、親の指示で人とすれ違わない生活がいかに閉鎖的であることか、親の指示で車すら運転できない生活のなんと不便なことか。自由を与えることはリスクにさらすこと。子供に自由を与えてやる代償として万一の事故で命を失ってしまったとしたら、それは良かれと思って与えた自由の代償だと自信を持って主張することができたしても、やはり深い悲しみに変わりはない。凶悪な事故による悲しみを繰り返さないために、子供たちを「守る」方策を大人が敷いてリスクを削減する代わりに自由も制約するような事例が本当によくあることだけれど、それは本当に正しいことなのだけれど、仮に極限までガチガチに拘束することは子供たちから自由をそっくり奪うことでもあるし、それでもやっぱり事故の可能性はどこまでいっても微かにでも存在はするわけで、ある程度を見極めないと本当に誰も幸せになれないと思う。だからこう考えることにした。常に死の確率は僅かながらに存在しているが、命日であるその日はたまたま彼にその確率が当たってしまっただけにすぎない。たまたま今日彼は死神様に彼は気に入られてしまっただけの話で、自分にもいつお呼びが掛かるかわからないのだと。地上の誰のせいにもできないアクシデントというのは本当にあるから。