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愚痴を書くブログ

水道管

久々に他者に対して真っ当に腹の立つことがあった。

確かに腹が立ったのだけれど、全身の血が煮え立つような、あるいは、脳味噌が不快感というガスのような曇った空気で満たされるような、そんな感覚が久々すぎたので、苛立ちと同時に新鮮であるなあとも思った。仕事が思うように進まないことへのもどかしさや細かいイライラは日常茶飯事だが、対人的な怒りという感情がここまではっきりと姿を現したのはいつぶりだろう。普段使っていない管に水を流したときのような感覚。脳みその普段使っていない部分を使ったのだろうと思われる。

気が短すぎるのは子供っぽいと思って、昔から簡単には感情を露わにしないことを美学としてきた。怒っている人をみっともないと冷めた目で見てきた。そうしているうちに、怒りをはじめとした種々の感情を自分なりに表現する術を忘れてしまった。子供のころは周りより一段大人であるために感情を押し込むようにしてきたのに、本当に大人になると自分の気持ちは自分で表現しないと身が守れないことがわかった。

怒りという感情が生ずるのは、これ以上は受け入れられないというポリシーがその人の中ではっきりと存在している証拠だと思う。ここまでは許容できて、これ以上は譲れないという境界線がなければ怒ることはできない。いかなる時でも怒りを我慢できることが美しいとは限らなくて、大切なものが侵害されるときにはきちんと許せないという感情が自分の中に存在していることをはっきり主張しないといけない。

これまであまりにも怒りという感情が自分に縁のないものだったので、周りの正常な人びとの中にはきちんと植え付けられているポリシーが自分にだけ欠落しているのではないかと不安があったが、今回きちんと怒る気持ちが出てきてくれたのでよかった。あとはこの怒りを、感情任せにせずきちんと相手に伝えるようになることが次の課題。

小学校低学年くらいまでにクリアしておくべきだった課題とも思われる。

でもこういう勉強っていくら年を取っても同じような課題に当たっては解決したり、しなかったり、半分解決したり、などを繰り返し繰り返していくものなんだろう。掛け算のできない小学生が累乗の意味を理解できるはずがないのとは全く別の話で。人によっては幼稚園で簡単にクリアしていくような課題を、人によってはいい大人になっても相変わらず解決できなかったりするのだと思う。

水道管はずっと使っていないと錆びてしまって本当に機能不全に陥るから、ときどき水を通してやらないといけないと思った。心もきちんといつでも不平を言えるようにしておかないと、って。