beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

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 人間の知能が他の動物に比べて特にすぐれていた点は、知恵を伝承し積み上げる能力だったのだと思う。人類と猿との違いが葉っぱ一枚の差だった時代からこの現代にかけてのウン千年もの間、文明というものは目覚ましいほどの発展を遂げてきたがこれは一世一代で積み上げたものでは決してなく、紆余曲折を経て、紆余曲折しまくって築き上げられてきたものである。ある時代に積み上げられた習慣は次の世代へと受け継がれ、さらに知恵を上乗せして次の世代へと受け継がれてきた。その上乗せが何世代にもわたって累積されてきた結果としてはじめて最先端の我々はいま、文明発展の恩恵を享受しえている。

人間サイドの長年にわたる累積的な知恵の上乗せによって、かつて葉っぱ一枚の差だったものが今となっては勝手に檻の中に幽閉する側/される側、見る側/見られる側、見て楽しむ側/知らず知らずのうちに楽しませる側、というところまで格差は拡大した。擬似的な山を製作し、これが猿にふさわしい住環境だということにされて毎日そこで生活することを強いられた猿の気持ちなど考えたこともない。ないに決まっているし、考える必要もないが。動物園の檻を挟んであちら側とこちら側の状況の違いに思いを巡らすと、人間とその他動物たちもろもろとの間に生じてしまった知恵の差というものを生々しく実感せざるを得ない。穿った見方をすれば、動物園とは動物を捕らえ檻に幽閉し、人類の発展を人類自身に知らしめ褒章を与えるという自慰行為のための装置なのかもしれないとすら思う。

ここまで人間はこんなにスゴイということを書いてきましたが、いっぽうで人間が猿から進化していない点というのもあって、排泄をしたり食事をしたり求愛するような生命維持的なところはもちろんそうであるけれど、猿は群れの中できめ細やかに個体ごとのランクが決まっているらしいという点に関して。餌の取り合いになるとマウンティングという行為が行われ、ランクの確認を行った結果、ランクの低い個体は餌を諦め、歯を出しキーキーと鳴きながら逃げていくのですというコメントが動物園によって掲示されていた。平等な人権などと口先では言っていても、人間の集まりもほうっておけば個体の持つ権利の量は声の大きさとかによって傾斜がかけられる方向に自然と向いていく性質があるので、まるで猿山の状況と実質は変わっていないんだなあと思いました。感情や習性の部分については、何千年かけて伸ばされた文明とは違ってかなり不変のものであるよう。

全然話は変わってここ最近の私自身の話をすれば、数年前まで孤独感をみだりに出す人やメンタル不全っぽい人を小馬鹿にしていたが今は少し反省している。それは私自身が心の拠り所だと思っていた故郷や昔住んでいた土地に帰ることだけを楽しみにして日々過ごしているのに、そこで過ごす時間がもし思い描くよりずっと空虚で無味なものであったら?と想像をしては恐怖にさいなまれているから。この土地でうまくいかなくても、自分にはもっと快適な、戻るべき温かい場所があると長いこと信じて過ごしてきたけれど、私自身が長いこと離れ、長いこと触れないうちに故郷の温もりは徐々に冷めてしまい、やがて戻るべき場所というのは私の単なる妄想でしかない架空の存在と化してしまうのではないか?という恐怖。そして自分を受け入れてくれる場所というのがいつの日かスッと消え去り、地球上のどこにも無くなってしまうのではないかという恐怖です。もっと若いころとは違って、無条件で周りの人が優しくしてくれるような年齢ではないことを理解してからというもの、もはやそういうところに関して気が気ではない。社会的勝者としてチャンピオンベルトを巻いて凱旋しなければ故郷では承認してもらえないのではないか、と。

承認されないということへの恐怖は、年齢だけ重ねたところで解消されず常に心のどこかに潜んでいるものだということを日々実感している。猿や人間がランクの高い個体に擦り寄ったり媚びを売ったり気に入られようとするのは、きっとその恐怖心をごまかすためで。擬似的にランクが上になった気分を体感すれば一時的に承認欲求は満たされるし、または、悲しそうな目をして同情を集めることによっても周囲からの承認がお安く手に入り、恐怖感をごまかせるんだと自分の中の左派が耳打ちする。一方でそんな卑劣な手で集めた承認などいらない、一時的なごまかしなど意味が無い、己の腕力で承認をもぎ取るべきだと自分の中の右派が演説を行う。恐怖が無くなることはないが、見えないようになってくれれば実際そのプロセスはどちらでもいい。法案に賛成か反対かは二の次で、真剣に吟味した結果自分の身が一番守られる手段が選ばれることが重要である。

なお容体は緩やかに変化し、ここ数日私が抱いていた承認されなさの恐怖や悲しみというものは、酒を飲んで帰りの車の中で酔っ払いにわけもわからず(猿のように)腕を舐められているうちにどこかへふっと消えてしまったようである。おそらく一時的なものであるが、そうやって一時的な救いをつなぎ合わせながら日々を乗り切れればそれでよい。まあそんなものかと。