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愚痴を書くブログ

良い心という猛獣が

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良心とは何かについて日頃考えている。自身が(あくまで自身が)もつ道徳に忠誠でいることがその人にとっての良心と言えると思う。ある人自身の良心が常に世界全てに関して文字通り良い結果をもたらすわけではきっとない。誰もがより強固な良心をもって行動し始めたからといって、世界がより住みよいものに変化するとは限らない。誰かの良心が別のだれかにとって害となるケースはいくらでもある。これは世界情勢という仰々しい土台での話題ではなく、日常的なレベルで我々に付帯する事象。海を越えれば当然道徳心のラインも異なるであろうが、同じ国、同じ地域の同じ町域に暮らす個々人の間ですらきっと道徳心はぶつかる。だから近隣トラブルが絶えない。

私は誰かを貶めたり、誰かにとって悪いことをしようと思って生きているわけでは決してないのに、自らの行為に対して非難されたり糾弾をされたような経験はいくらでもある。出来た大人同士のコミュニケーションの中ですら発生するそれらはきっと道徳心の摩擦によるものなのだろうと決め込んで、沸騰して頭へ遡上する自らの血液に対してはそっと見て見ぬふりを決め、落ち着ける。きっと私の道徳心も誰かの血液を知らず知らずのうちに遡上させているのだろうと。

いっぽう、良心を最大限に働かせて精一杯に取り組んでも、時間と労力という物理的な制約から逃れることができず、取りこぼしてしまう物事というのも存在する。精神的な体力切れというものもそこに追い打ちをかける。良心とは神様の所有物ではく、所詮人間の持ち物だから。人間は完璧じゃないから。そんな他者のことなど元来人間には到底理解できないものだから、他者の限界というものについて理解はないのが普通で、自身の道徳心をもとに他者の至らない成果に対しては批判したり糾弾したりする。人間には良心があるから。こうなって結果として溢れかえってしまう批判から良心を守ってやる立場がきっと必要で、だから管理する立場というのは、道徳心というものの日常的な功罪について深い理解を持っている必要があるのだろうと思いました。出来た大人同士のコミュニケーションで成立するのがコミュニティであり、コミュニティに属する働き手というのはけっしてコミュニティに単に都合のいい駒ではありえない。良好な環境を維持するためには、あくまで道徳心と良心という猛獣を内に秘めた人間のあつまりであるということを熟慮している必要がある。

以上が、精一杯やってる行為がともすれば悪意とみなされてしまう不器用な人間による1000文字余りの愚痴であり、今も、愚痴を書き連ねている最中も、感情は至って落ち着いています。