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愚痴を書くブログ

捨てる


廃虚の「ドリームランド跡地」、奈良市の公売に入札ゼロ 破格の安さも遊具撤去費を敬遠か - 産経WEST

僕は昔からなかなかものが捨てられない性格で、小さい頃遊んでいたおもちゃとか、普段着とか、大きくなるにつれて不要になっていくものが親に「不要になったから」と言って捨てられるのがとても嫌でした。一緒に育ってきた、あるいは僕がそれらに育てられてきたといっても過言ではないような、それらのものたちに対して、こちら側の都合で一方的にさよならを告げるのが耐えられなかった。捨てたら捨てたきり、もう二度と顔を合わせることができないというのが怖かった。そもそも人形などのたぐいでない限り顔なんてないのだけれど。

歳をとって部屋を与えられ、やがて進学で独り暮らしなどをするようになって、自分自身で生活を立てる必要が環境の変化と共に増してくるようになると、「要・不要」の基準が「捨てることへの恐怖心」を追い抜いて、あまり抵抗なくものを捨てることができるようになった。それでも、未だに小学生時代に作った工作のガラクタや貰ったものなどを、何度かの引っ越しを経てもなかなか捨てられず、部屋の隅に引っ越し用の段ボールに入ったままひっそり隠し持っていたりする。

どこぞの工場か何かで生産された日から名前と用途を与えられ、それらは多くの人たちから愛され、時間が流れ、人々の嗜好が変わり、使われなくなってしまったそれらはやがて捨てられ、忘れられ、誰も見ていない場所で朽ち果ててしまう。ものがそこにあること、その事実自体は揺るがないのに、ぜんぶ人間サイドの都合で捨てるとか使うとかそういうのが決められちゃうのが切ないなって思う。まあ生産したのも他ならぬ人間のほうなんですけどね。

廃墟とか廃遊園地みたいなのに関する話題を目にするたびに、人間が人間のために作ったものが、やがて人間の都合で、人間によって見捨てられてしまう不思議を感じる。時の流れとはそういう不思議のサイクルを生み出してしまうものかと、やっぱり切ないなって思う。でもいつまでも放っておくわけにはいかないし、便利で楽しいものはどんどん新しく生産されていく。古くなったものは捨てなきゃいかんよなぁとも思う。そんな二つの感情に揺さぶられるのがユニークで、廃墟に関する話題は常に僕の目を引くのです。