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愚痴を書くブログ

空虚から解き放たれて


アンパンマンマーチ - YouTube

何の為に生まれて 何をして生きるのか

答えられないなんて そんなのは嫌だ!

自分が生まれてきてからこれまでの24年の間、何のために時間を費やして何を積み上げてきたのか。これからの自分は何のために生きていくのか。そんなのは生まれた時から決められていたわけではないし、万人に適用されるような明確な答えがあるわけでもないと思う。

少し自分は環境や空気というものに便乗しすぎてしまった。学業の成績が上がると周りから良い反応が返ってくるから、真面目に学業に取り組んだ。部活の成績が上がると周りが喜ぶから、真面目に部活に取り組んだ。真面目すぎると周りから少しカッコ悪く見られる気もしたので、真面目にやっていない素振りも少しした。環境や空気があって初めて自分のやっていることの目的が見いだせる、そんな人生だった。良く言えば献身的、悪く言えばお人好しというものである。

きっと自分自身の生きる目的に鈍感だった。かなり無意識に日々を積み上げてきてしまった。精神的に楽なのは、波風を立てずに空気に流されながら生きていくことだから、自分の目的に他人の目的がスルスルと入り込んでいた。そうして生きてきた自分自身は“空虚”だった。

あるときから、そんな自分自身の“空虚さ”を自覚させられるようになって、もっと自分の生きたいように生きることを選択したいと思うようになった。周りに生かされることも一つの生き方であるとは思うけれど、この世に生を受けて大地に二本足で立たせてもらっている以上は、また、二度とないこの人生では、周りの環境とか空気とかそういうものからは少し離れた場所にいたい。自分がやりたいこと・目的を、もっと自分と対話して突き詰めて、自覚して日々を生きていきたい。自己中心的に生きていきたい。

人生を通して、何かたった一つだけ成し遂げたいものがあるならそれを追えばいい。無ければその時々でやりたいことを突き詰めればいい。僕は、目的はその時々で変わるものだと思う。

大きな目標をひとつ持って、優先順位をつけながら日々を過ごすことは大層なことだ。オリンピックで表彰台に上るような人は、競技にいつも懸命で、いい成績を取るためにどうすればいいか常に考えているのだろう。練習の時間を取るのはもちろん、食事や睡眠といった生活サイクルも競技の向上のために組み立てられていく。生活の中でいろいろなものを犠牲にしてもなお競技を追求するからこそ、多くの人々から讃えられるような結果に辿りつくことができる。

けれど、そういった生き方や日々の目的ばかりが讃えられるべきものではないはず。僕のような一般庶民も同じように、毎日何らかの目的を持って生活している。日々を充足感のあるものにするために、意識下であろうが無意識下であろうが、能動的であろうが受動的であろうが、確かに目的はある。それも一人に一つではない。

そういう目的たちを、どんな小さなものでも、くだらなくても、もっと自覚していたい。それで尊んでいきたい。目的は毎日変わるだろうし、日々を積み上げた先に何かしらの大きな完成が待っているとは限らない。けれど、尊ばれながら積み上げられた日々は後から振り返った時にきっと彩り豊かなものになっていると思う。だから、日々を尊び、愛するために、自分が本当にやりたいことや、直感が決めたことを殺すことなく、それらに正直に向き合って生きていきたい。それが、この世に生を受けた自分の使命だと僕は思う。