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愚痴を書くブログ

ゆとりの烙印

この前、日テレ系の「月曜から夜更かし」で“様々な世代について取り上げてみた件”みたいな内容が放送されていた。簡単に言えば「脱・ゆとり」を掲げて政府が方針転換をしていくけど、「ゆとり」以外には過去にどんな世代があったの?っていうお話。

街頭インタビューでは「いつの時代だって一緒で、下の世代は大丈夫なの?って思われるもんだよ」なんて親切な意見もあったが、やはり「ゆとり」と言えば競走ではみんなで揃って一緒にゴールみたいな教育方針で育てられた結果、競争心の薄い、どこかのんびりとした世代というイメージで語られていた。

ゆとり世代のど真ん中で育った僕としては「はて?」と思うような内容ではあった。たとえば僕が小学校に通っていた頃を思い出せば、徒競走ではトップになる奴とビリになる奴が絶対いたし、それに従ってだいたいカーストみたいになっててトップになる奴はクラスの人気者だったし、ビリになる奴はどうしようもない子みたいな感じだったし、僕は常に6人中4位ぐらいのしょっぱい立ち位置だった。円周率だって3.14で計算してたし、なんなら中学生のころ小数点以下70桁ぐらいまで暗記したぞ。かかってこいよオラ。

とにもかくにも、ど真ん中であるがゆえか、はたまた日本の末端の地方都市で育ったせいかは知らないが、自分がテレビで取り上げられていたようなのんびりした世代という実感が本当にない。世代の傾向として若干そういうものがあるのかは分からないが、まあいろんな奴がいる。いろんな奴がいるのはどの世代も当てはまるとは思うけれど。「ゆとり世代」であるというだけで「あぁ、ゆとりね」と決めてかかってくる大人に対して僕はのんびりなどしていられないっすよ。

色分けをした方が見栄えがいいのは理解できる。「Aという傾向がある」というものは「Aだ」と括り、「Bという傾向がある」ものは「Bだ」と括っていけば、混沌とした状況も少しずつ整理がつき、やがて全てに立ち位置みたいなものが与えられる。「混沌とした状況です」と言うよりは「これはAです。これはBです。Aがいいです、Bはダメです」と一個一個片づけていく方がわかりやすく、エンターテインメントとしては価値が高い。

ただ自分も含めた「世代」という枠で十把一絡げにして取り上げられて、この世代はああだ、この世代はこうだ、と言われると、身の周りの必ずしもそうとは言えない状況が目について「なんだかなぁ」という気分になってしまう。「なんだかなぁ」という気分どまりなんだけど。まあ考えてみれば、そのザックリとした「括り方」であるとか「定義の仕方」がいつも面白い番組で、たまたま今回は自分の世代がその矛先となってしまったというだけの話なんだけど。

テレビは「整理がついている」ことで成立するエンターテインメントなので、そこでは極力混沌さというものは排除される。けれど、(まさに「ゆとり教育」のスローガンであった)個性や多様性が叫ばれる(ていた?)ように、混沌さに目を向けてそれを愛する心を持つことも必要なんじゃないかなぁとは思う。ゆとり世代にだってオオカミとかイノシシみたいな奴はゴロゴロいる。色とりどりの要素が混在することで一つの概念が成り立っている例が多いことをもっと知ってほしいし、僕も知りたい。

 

これだけズラズラ書いていることからも分かるように、ゆとり世代は「ゆとり」という言葉に敏感なので注意が必要。