beautiful and wonderful

愚痴を書くブログ

いつも80%で生きたい

今回はたくさん引用してみます。

独立したのにはいろいろ理由があるんですけども、ひとつには社長の言う「常に120%」というのが根本から納得いかなかったからです。だって疲れるじゃないですか。そんでこういう人はかならずセットでこう言うんですよ。

「人生は重たい荷物を背負って行くようなものだ。その人生が成功であったかどうかは最後にわかる」

 冗談じゃねえっすよ。40歳だって10歳だって60歳だってひとしく生きてるんすから、最後に勝ちでよかったなあとか思うくらいだったら、ずっと負荷を一定にして気楽に生きたほうがいいに決まってるじゃないですか。不測の事態があって敗北せざるを得ないような人生だったらどうすんすか。今日できることを明日に回すなって言うんでしょ。だったら今日楽しめることを明日に回すなですよ。両立させたきゃ均等にやりゃいいじゃないすか。常に80%で充分です。

http://beautiful-and-beautiful.tumblr.com/post/75699635821/

現在の楽しみや快楽や喜びを犠牲にして、将来のために「努力」なるものをコツコツ積み上げるっていう考え方にあんまり共感できなくて、じゃあ将来のために犠牲にされる自分の現在って可哀想じゃない?って思う。常識や社会一般で通用する「普通」の考え方なんて短い時間でひっくり返ってしまうものらしいし、2014年に積み上げた120%の「努力」が例えば2034年とかに120%以上の成果として確実に跳ね返ってくるという保証はないわけ。別に「努力」しようっていう姿勢はストイックだしカッコイイと思うから否定はしないけれど、それが常に正義であったり美徳であるとは思わないし、押しつけないでほしい。周りにはちょっと心配を掛けるかもしれないけれど、僕は僕で今を楽しみたいので。

 

「死ぬ間際の後悔」ってその一瞬後は死んで無になるだけなのに何故それを恐れて人生過ごさなきゃなんないのかな。そういう強迫観念に駆られて人生過ごしたくないなって思った。

http://beautiful-and-beautiful.tumblr.com/post/75004515281

ぐう、と思った。「死ぬ間際に『良い人生だったなぁ』って言える人生にしたい」と思ったから。

でも、良い人生にしなきゃ…しなきゃ…って強迫観念に縛られて生きる人生は、【死ぬ間際に『良い人生だったなぁ』って言える人生】とは言えないかもしれない(し言えるかもしれない)。逆にテキトーに生きたって死ぬ間際に「楽しかったなぁ」って思えるかもしれないなら、どっちにしたって意図したとおりになるとは限らないなァ…って考えたら、やっぱり死ぬ間際がどうとかはあまり考えないで生きる方が有益なのかもしれない。

 

もし、この世の中に 『良薬は口に苦し』ということばがなかったら、 何かが大きくちがっていたかもしれませんよね。 このことばのせいで、たくさんの人たちが 「苦ければ苦いほど効くんじゃないか」と、 思いこんでいる人が多いんじゃないかなぁ。

http://beautiful-and-beautiful.tumblr.com/post/68668807560

なんで「努力」とか「がんばる」とかを美化するノリに反発するようになったかと考えると、恐らく中学生の頃に受けた、とても体育会系な生徒指導方針の反動かもしれない。総体の前になると3日間、全校で行進練習をやらされて「市内一番の行進を目指して声を枯らせクソども!!!」みたいに怒鳴られる学校だった(今になると、あんなこともあったなァ~と笑えるが、当時は真剣にやってた)。でもこんなに声を枯らしてまで自分のために得られる結果って何なんだろう?って薄々感じてたし、誰かが満足するために自分が精一杯頑張るのって損なんじゃないかなってちょっと思った。だから僕個人としてはあれ以降、「努力する」ことが常に自分を正の方向に向かわせてくれると信じるのは、ちょっとグズなんじゃないかと思っている。

けれど一方で中学校の生徒指導としては悪くないのかも、とも思う。「努力」することで「一番」というある種のご褒美が待っている、だからとりあえず「努力」をしなさい。ゴールとそこまでの険しいプロセスを示して、実際に歩ませる。ゴールに至るためにはプロセスがなきゃならないんですよ、それはたまには険しいものなんですよ、って知るためにはいい勉強になった。それに何より、そこで自分が少しでもそういうノリに「反発」を覚える人間なんだな、って心から感じられたのが良かった。だからあの行進練習に意味が無かったとは思わない。