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愚痴を書くブログ

「がんばる」ことについて考えてみた

日本人は「がんばる」という言葉が好きだなぁと感じる場面が多くある。

身近では、会社の研修で同期が「先輩として新入社員の見本になれるよう、がんばりたい」というような、もはやお手本かと突っ込みたくなるような2年目の抱負を堂々と読み上げていたし、スポーツニュースをつければ、カメラに向かって冬季オリンピックの選手が「残りわずかな期間を有効に利用して本番で全力を出し切れるよう、がんばります」とコメントしている映像が最近は毎日のように流れている。

じゃ、「がんばる」とは一体なんぞや?と思うところがあって、尊敬している大学時代の先輩が過去に「がんばるがんばる言うけど、ただやる気がある風に見せるためのその場しのぎになってないか?その中身を具体的に詰めないとダメだよ」というニュアンスの発言をしていたのを受けて、僕はそれ以降「がんばる」という言葉をあまり使わなくなった。

もちろん「がんばった」あとにきちんと結果がついてくる人は、あえて言わなくても「具体的に詰める」ことができているのだろうから別にどうでもいいんだけれど、毎度そうじゃない人は「がんばる」という言葉に頼っているだけのおそれがあるので、差し控えた方がいいのではないかと思う。

というのがアンチ「がんばる」の一つ目の切り口。

 

もう一つの切り口が僕にとってはもっと重要で、日本人は「がんばる」ことで溜まる「ストレス」の存在に鈍感すぎるのではないか?ということ。

「がんばる」ことにもいろんな分類の仕方があると思うんだけど、ここでは大きく2つに分けてみたいと思う。

  1. 自分の好きなことに向かって(自発的に)手段を考えて「がんばる」
  2. 他人に向けさせられた方向に向かって(自発的な意思はなく)やむなく「がんばる」

例えばの話ですが、先に挙げたスポーツ選手なんかは1.の意味で「がんばる」を使っているように(勝手ながら)思う。そこに自分の腹の底から湧いた意志があれば、「がんばる」ためにあれこれ必死になって手段を考えるし、「がんばった」結果がついてこなかったとしても、次はどうすればいいんだろう?と、誰に言われるでもなく試行錯誤をしていくものだろう。もちろん、「自身の向上」に関して悩むところも多いだろうし、ストレスは尽きないはず。ただスポーツ選手と言ってもその実は多種多様であると思うし、何より僕は最前線のスポーツ選手ではないため、ぶっちゃけ自分には推し量れない領域である。だからこれ以上はコメントしないでおく。

 

問題は2.の「がんばる」のほう。

僕個人の話をすると、昨年春に就職して、どこぞの他人が経営する会社で晴れて仕事をさせてもらえることになった。そこから早10か月。職位はというと当然一番の下っ端で、そこには上司がいて、その上司にはさらに上司がいて、さらにその上に部署を取り仕切る上司がいる。もっと辿れば、その上に執行役員やら何やらがいて、最上には会社を経営する人がいる。

ここまでの10か月の社会人生活で勉強させてもらったことは数知れないけれど、あえて大きなものをひとつ挙げるとしたら「会社とは、あくまで他人の意思で動くもの」ということ。

もちろん自分の裁量に委ねられる場面は多くある(方の会社だと思う)。自分が受け持つセクションで改善したいことがあれば上司に相談できる環境であるし、逆に現状で改善すべき点を持ってこいという課題を出されることもある(それがまたことごとく達成できないから困っちゃう)。

ただあくまでそれはそれで、上の人間が出した方針に従って「従業員」が動く、という大原則は揺るがない。大きな方針は具体的な作業指示という形まで噛み砕かれて、現場従業員のレベルまで落とされる。上からの作業指示に従ってあれこれ考えて動く。部下に与えられる裁量は、その「考え方」「動き方」をどういじるかというところだと思う。仮に、もっと上流で改善すべきでは?という点を見つけても、大概はとっくにもう上の人間たちによって考えられ、実践し尽くされている。

だから、会社でやっている仕事は他人に仕向けられたものに過ぎないからがんばれません!

と言いたいのもあるがそこが趣旨ではない。

会社とは、誰かの意思の一部を肩代わりして、協力して達成しようとする人たちの集団である。そこで自分が進みたい方向が上の人間の意向と完全に合致すればこの上ないが、いつもそうではない。むしろ、サボりたい、立ち止まりたい、そんなときだって人間だからある。でも雇われの身なのでそんなことは言っていられない。タイミングが合わない。

それに、集団で仕事している以上、社内の誰かと行き違うことは本当によくある。歩き出そうとした方向を即座に快速の電車が横切っていくような感じ(その快速がさらにその先で脱線しちゃったりもする)。また、仕事の成果として、お客様とされる人たちの幸福度が上がらなければ、会社として存立しない。裏を返せば、仕事でミスをすればお客様の幸福度が例え僅かだとしても下がってしまう。「がんば」っても人間だからミスは起こる。そのお客様が仮に目の前にいたら、ミスに対して叱責を受けたり、「おたくのはもう買わない」と言われてしまうことも、もはややむを得ない。

そうしたもろもろの「人間関係」、もっと言えば「人間とのやり合い・やられ合い」を踏まえたうえで「がんばる」ことはやはり「苦難」を伴うし、「ストレス」が溜まる。でも社会で「がんばる」ということは、そういうことだと思う。

 

「がんばる」ことはもちろん素晴らしいことだ。でも、「がんばる」ことの美しさを追究しすぎるあまり、そこに尾ひれのようについてくる「ストレス」を看過し続ければ、いずれどこかで人間は壊れる。これが近年増えている(と言われている)「うつ」の原因の一つなのではないかと、個人的には思う。「がんばる」ことが社会全体として美化され過ぎているような気がしてしまうのだ。 

だからむやみに「がんばる」とは言わない。自分のできる範囲を少し緩めに設定する。無理ならもうできませんと言う。うまくいかないのを誰かのせいにする。それで給料が上がらなかったとしても、もともと自分のキャパシティはきっとそんなものなのだ。自分を壊してしまうよりはよっぽどいい。

それが最近のポリシー。