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愚痴を書くブログ

ガリバートンネル

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ある過去の経験に関して、あとから振り返ってあれは無駄なものじゃなかったとか、逆にどうポジティブに解釈しても無駄なことだったとか、そういうのは極端な話、死ぬときになってから振り返ってみないと判定できないものなのだろうと思う。だから今後金輪際、きっとこれは後から振り返って無駄にならないはずだと踏んで、我慢して嗜好に合わない“後から振り返ってためになるはずのものごと”を続けるのをやめようと思います。死んだときに悟って生きる道を誓ったのではすでに遅いから。これは過去の自分が勝手に今後ためになりそうだと予測したことが、実際その通りためになった例が私自身、現時点の観測ではほとんど無いという裏付け付きです。そもそも何を無駄とするかは畢竟、個々のセンスとか嗜好に委ねられるものじゃないですか?結果オーライや、棚からボタ餅的に何らかの経験が後に活きることがあるとしても、棚から落ちたボタ餅は所詮棚から落ちてきたに過ぎずそこに因果は認められないので。落ちてくるはずのボタ餅を期待して、計画に組み込んで生きることをやめたいという話です。でもボタ餅はおいしい。

意識的に向こう見ずに生きることのいいところは、みだりに絶望したり悲観したりする必要が無く、一日一日の充足感を大切にできること、よくないところは将来の話ができないことと反省しないことです。何か大きなことを成し遂げるための一日ではなく、一日一日のアクティビティがそこで完結しているので、反省とかを翌日に持ち越すことがない。だから一度失敗をしても懲りずにまた同じ失敗をする。躾という行為があって、Aができなかったら措置としてBという罰(苦々しいこと)が待っているということを教育する。あるいは、Cという誤りを犯したらDという罰が待っていると身に覚えさせる。それにより教育する側にとって都合のいい風なフォルムへと成型が行われる。この躾や教育というのはたとえば飼い犬とかには効果が高いが、自我の確立した人間や凝り固まった視野狭窄の人間にはほとんど意味がないのかもしれないと思う。誤りという概念に対して多面的な見方をおぼえて、自分なりに詳しくなるから。

「面倒くさい」という感覚は、それまで経験のなかった新しいものごとに取り組むときに必ず生じるものなのだと聞いたことがある。面倒くささの錘から心を引っ張り上げる要素というのは、好奇心か面目かのいずれかくらいだろうと考える。好奇心は積極的なエネルギーで、面目を保ちたいという心理は消極的なエネルギー。25を目前にして煙草を始めるのがもはや面倒くさいなと思うのは、その箱やライターの質感に好奇心をもはや感じず、煙草をやらないことで周りとの関係性が~~などというものにも無頓着になったことに同義なのかもしれない。そうやってさまざまなことに好奇心が薄れて、面目などというものにも無頓着になっていくことが、歳をとって「凝り固まっていく」ということ、なのでしょう。面倒くさい無駄なことにはエネルギーを使わない。経験が多くなれば多くなるほど、逆に手に取るものごとの傾向や種類というのは狭まっていくというのが不思議だなあと思いました。