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愚痴を書くブログ

つきぬけた

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数十年という単位で、なにかひとつの物事に没頭したとすれば見識や思考の道筋に激しく偏りが生じる可能性が高いことは火を見るより明らかな事実ですが、その没頭がたとえば多くの人の暮らしを向上させるのに繋がるのであれば世の中は無論歓迎するでしょう。しかし大抵そんなにうまくいくわけではなく、人の役に立つ没頭なんて一握りにすぎず、その没頭はその役に立たなさを糾弾されです。続けて、没頭してしまった側の人は結果的に没頭しすぎたがゆえにオールラウンダーになれなかった、まさにその能力の偏りなどを追及されておもむろに立ち位置をなくしていくのです。

ノーベル賞を取る人がノーベル賞を取るに値するほどの研究成果を残すまでに、どれだけのエネルギーを、人のため、世のために、と思って注ぐことができたか僕はなにも知りませんし、今から述べることに有効なソースは全くありませんが、少なくとも世の中がどうこう以前に自分がやってて好きなことだったり研究そのものに夢中じゃなければそんなこと何十年もやってられないんじゃないか??と思いました。自身の過去の話と比較するのは恐縮ですが、一流大学のブランドを目指してセンター試験対策をやったわけではなく、単純にわかることが増えていくのが快感だったから。きのうできなかったことがきょうはできるようになった快感を、また翌日味わうために明日も少しは頑張ってみる。そこでは別に大きな将来など見ていなくて、目の前のことで精一杯ながら夢中でもあったのです。

現在進行形で夢中になれることを追いかけてる、という点ではノーベル賞モノの研究も役に立たないクソ知識のやべえ人も共通していて、どう世の中にインパクトを与えたかの差でしかない(もっと極端なことを言えば、賞という箔がついたかつかなかったかの差でしかない)から、なにかに没頭できるというだけで僕はそれを才能のタネと呼ぼうとおもう。世の中の方が180度回転すれば、突き抜けている分がうまく活用されてすぐに圧倒的トップに立てる可能性がある。さらに心を広くもつなら、人間的な能力のアンバランス感やとてつもなく欠けている部分が見えているだけで十分愛そう。人のとてつもなく欠けている部分はたまに簡単に見つかるが、裏返して突き抜けている才能を探そうとは人はあんまりしない。僕は器用貧乏でいるぐらいならいっそ不器用貧乏でありたい。それがいくら儲かろうが、嫌いなジャンルには向き合いたくないという我儘の宣言でもある。よく知らないけど偉人ってみんなそんな感じでしょ。と思いました。