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愚痴を書くブログ

読書感想文

読書感想文というものを夏休みに書くのを求められ続けるのは小学生までだったか。今となっては文章を書く面白みとかも覚えたので、おそらく喜んで書くことと思うけれど、当時は嫌で嫌で仕方がなかった。①読書をする②それについて感想をもつ③文章として構築する、という3ステップを踏まなければ課題として成立しないのが面倒でたまらなかったこと。あらかじめ指定された課題図書、おそらく、課題として指定された背景には、教育委員会とかの偉い人がこの本はためになる!と太鼓判を押した事実があるのであろう図書、という縛りの中で、偉い人や先生が「この文章を書いた子はよい子だ!」と評価するであろう書式の文章をお手本通りに書かなければならないこと。感想など十人十色でよいものだろうに、その中であえて、偉い人たちの基準で「よい文章」を書いた順番に金賞から順に表彰されること。その辺に対して幼ながらに嫌悪感が凄かったし、意味がわからなかった。アサガオの観察でもしてるほうが100倍は楽だと思った。

もう20年近くも経つから時効だと思うので言いますけど、小学1年生の時、おそらく感想文が嫌で嫌で拒否をし続けたため母親が手を焼いたのだろう、母親の構想の通りに夏休みの読書感想文を仕上げた。私は字を書くだけで。小学1年生程度のレベルに合わせて作ったつもりだったのだろうが、やはり素人の能力には限界があり、目測を誤ったのか間違えて銀賞に入選してしまった。幼ながらに後ろめたさがあったのだろう、私は提出期限ぎりぎりまで提出しなかったため、あとから担任に「あと一足遅かったらこの入賞がなかった」と言われたのを覚えている。「すべりこみセーフ」という比喩を初めて知ることとなる7歳の夏。

初めは型というものを教わって、そのルールを正確になぞって身になじませていく。やがて型を取り去ると徐々にそこから自由になることの楽しみを見出す。補助輪が取れることで初めて自転車で駆け回る楽しみを知るみたいに。小学生時代に課されていた作文などは型を叩き込むための練習台で、のちにその型を自ら取り去って文章で自由に表現する楽しみを知るための伏線のような経験だったのだろうなと思いました。

 

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読書で言うと最近は伊坂幸太郎さんの「死神シリーズ」が好きで、ストーリー展開の情緒性や感動性はさることながら、特に惹きこまれるのが主人公である死神の千葉の発言や動作などそのキャラクターに関する点すべて。このさいストーリーはどうでもよくなって、ただ単に千葉の発言が読みたくなって小説を開いたりする。身なりは普通の人間にそっくりで、人間の言葉はわかるけれど、いかんせん死神なので細かな人間の感情や文化には疎いため微妙に発言がずれている。

荻原「(そんな言葉、)いい大人が口にするのには、度胸が(要ります)」

千葉「悪い大人ならいいというわけか」

その天然っぷりとは裏腹に、不死身でかつ離れた携帯電話の通話先の声も聞こえるというスーパーマンなのだが、情緒などは一切なく、人間の恋愛や死や様々な感情などは取るに足らないことだと捉えている。その境地に立った時、誰かを優遇したり差別したり、あるいは情をもってほだすようなことは一切ない。そういった至ってフェアな視点やものの考え方にはあこがれるし、見習わなければならないとも思うけれど、ただ、それがなかなかできないのが情を持った人間というもの。だが、千葉と懐柔して、共に過ごす7日間の中で死というものに関して問いかけられて、ふと自分自身の生について見つめなおして、それぞれにあれこれ考えるその無邪気さも、人間が人間からは切り離せない魅力なのかもしれないと逆説的に感じさせられる。千葉が大活躍する物語ではあるのだが。

指示されたことを手を抜かずに行う。それが、仕事ではないか。

しかしながら、こと「仕事」というものに関して誠実であるためには、ときに死神のような情に流されない無機質な態度というのも必要なのかもしれないと思う。